北京で太極拳

takeichi3.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

関羽。。。関雲長


f0007580_2143270.jpg
北京オリンピックの象徴でもある「鳥の巣」広場に登場した、中古車などの廃材を利用して製造された自然保護運動のシンボル“トランスフォーマー”。。。

9月まで残っていてくれるとイイのですが、、、



こちらは、中央美術大学生の卒業制作、「変形金剛“関羽”」




三国志を題材とした映画やテレビドラマが多い中国。
ドニー・イェンも、来年公開の“雲長=関羽の綽名”を撮影しているようです。

「関羽」って???
現在は、「関帝」として祀られたりもしていますが、、、

関羽は後漢、三国時代にかけて活躍した実在の武将。
姓は関、名は羽、字(あざな)を雲長。
後漢末期宮廷内部は宦官の悪政のため王朝は末期的な症状を呈し、世の中には飢饉と貧困が蔓延して黄巾賊(太平道という宗教集団)の反乱が世の中を騒がせていました。
乱世を正すために関羽、張飛、劉備の三人が義兄弟の杯をかわして義勇軍に参加⇒劉備を長兄、関羽を次兄、張飛を末弟とした義兄弟&主従の杯。

関羽の人柄を語るうえで「義」は忘れてはなりません。
義とは「義理人情」「義を見てせざるは勇なきなり」といわれているように義侠心のことです。劉備は「仁」に、関羽様は「義」に最も重きをおいていると言われ、その代表的な逸話は曹操との一件です。

建安5年(西暦200年)劉備は小沛で曹操に敗れ、袁紹のもとに落ちのびたとき、関羽の元には劉備夫人が居たために、曹軍の武将張遼の説得を受け入れ、曹操に降伏を決意します。その時、関羽は曹操に降伏するにも、次の3つの条件を引き替えに出しています。  
1、曹操に降伏するのではなく漢朝に降伏する。  
2、劉備夫人の安全を保証すること。  
3、劉備が生きていることが分かれば劉備のもとに帰る。

曹操は、義に溢れた関羽の人柄に惚れこみ、偏将軍の位や金銀財宝、名馬を与えて自分の元に留めようとしましたが、関羽は興味を示さず、名馬以外は劉備夫人に献上してしまったそうです。

やがて袁紹が白馬に攻め込んでくると、関羽は曹操から受けた恩への返礼として袁紹軍の将顔良、文醜を切り曹操軍に勝利をもたらします。その後、劉備の生存を知ると、贈物を全てを曹操に返し、劉備夫人と共に曹操の下へと脱出します。関羽は5つの関所と6人の将を倒して辿りついたと言われています。

「赤壁の戦い」や「荊州南郡進攻」などは、関羽様の義侠心の厚さをより一層物語るものとして語りつがれています。  

赤壁の戦いでは、逃げてきた曹操の命乞いに対し、それを許しています。
袁紹軍の武将顔良、文醜を斬って恩を返したとはいえ、「義」に厚い関羽様は曹操の要求を断ることができなかったのです。荊州南郡の張沙城を攻めたとき、老将黄忠と一騎打ちを演じましたが、黄忠が落馬しても「馬を乗りかえられよ」と引き返していくなど、史上これほど義侠心に厚い人物は類を見ません。

関羽に対する崇拝は、死後九年(西暦228年)、蜀漢から壮繆候の謚(おくりな)を授かり、祭祀されたことから始まります。

実際の民間における崇拝は唐朝時代から。
歴代の王朝は関羽様の信義・忠勇の精神を世人の手本とし、さまざまな称号を贈り、神明として勅封しました。

朝廷と民衆の両方から支持を受けた関帝廟は忽ち津々浦々各地に広まりました。
関帝廟は文廟と呼ばれる孔子廟に対して武廟と呼ばれていますが、実際は武神のほか、民間では老爺とよばれ、幽界のもっとも有力な神としても崇められていました。

また、理財にも精通していたため、商人は「財神」すなわち金儲けや商売繁昌の神として信仰しています。 武将にとっても商人にとっても一番大切なものは信義・信用という点から、商業神としての信仰も厚く奉られています。
by takeichi-3 | 2010-07-11 22:33 | いろいろ | Comments(0)