北京で太極拳

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沙県小吃で経済発展。。。

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大好きな食堂≪沙県小吃≫の朝ご飯。
蒸し餃子と煮玉子に、
熱を摂り除く効果があるという夏向きスープ排骨湯。

沙県小吃という看板。
北京のあちこちで見かけるので、てっきりチェーン店なのかと思っていましたが、中国Yahooでも特集が組まれるほどの物語があるようです。


見出しは、
あの時、民間金融システムの崩壊が無かったら、誰として沙県(福建省)から逃げ出さなかっただろう。
沙県から逃げ出す人がいなかったら沙県小吃が全国に広まることも、沙県の経済発展も無かっただろう。

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1992年2月のある日、鄭世奇は夜逃げを決意した。
厦門行きの列車チケットを二枚買い、妻と五千元を持って旅立った。
二つのバッグには布団、衣服、と鴛鴦锅、木槌といった沙県小吃を作るための道具が入っていた。

三人の子供は妻の父に預けた。
上の子は12歳。義父の収入は每月28斤の粮食と60元の給料。
十数万元の債務を返せるあてもなく、ただ逃げ出すのみだった。

暮らし向きは、悪くは無かった。
県城にある映画館の撮影技師をしていた鄭世奇の給料は3百元。当時は高給取りだった。
妻は県城で鞋と毛糸を売る店を経営していたので、家の収入は一カ月、千~二千元となった。

その収入を
「標会=沙県の伝統的な互助会制度⇒冠婚葬祭、開業に必要な費用を融資して利息を配当」
につぎ込み、利息を受け取っていた。当初、村で定めた標会の金額は一口五元。その後、徐々に値上がりして数十元が、1989年には3百元に達していた。

1990年になると県城に旧都市改造計画が持ち上がり、鄭世奇の家は取り壊されてしまうことになった。もっと多くの利息を得て家を建てようと、親戚にお金を借りてまで標会に投資した。

1991年、鄭世奇は初めて「叫標」をして、会から1万元余りの融資を受け商いを広げようとしたが、正にお金が手に入るという時に会長が会の金を奪って逃走。その影響から標会は崩壊。つぎ込んだお金だけではなく多額の借金を抱え~春節前に二つの店を売り、どうしても返さねばならない金額を差し引いた残りは5千元。それではとても足りなくて、夜逃げを決意した。

8時間汽車に揺られて厦門に着いた。
小吃店(食堂)を開店しようとしたが、持ち金だけでは敷金が足りず店舗を借りることが出来なかった。仕方なく、路辺で商売を始めた。

露天での商いは難しく~二ヶ月後になってようやく店舗を探し当てた。
資金は、あちこちの知人に連絡をとってようやく九千元を借り、7千5百元を家賃として払った。

開店当日の売り上げは388元。日に50元位あればと推測していた鄭世奇は小躍りした。
食堂のメニューは少なく、一元の拌面、扁肉と茶叶卵。これが、毎日4~5百も売れた。

鄭世奇以外にも多くの“逃標”者がいた。
1992年末,在沙県農村で耕作をしていた張绍椿は满20歳になったばかり。一年の収入は5千元。口癖は、「累死了!=疲れて死にそうだ。」

ある日、沙県を飛び出した多くの人が小吃で稼いでいると聞き、「耕作は止めた。小吃を始める」と両親に宣言して、厦門に向かった。

早朝五時に起き出し、夜中の二時に眠る生活。
一日の売り上げは4百元以上。一日十数時間の働きでこんなにも稼げるなんて!と疲れも忘れて働いた。
1995年、張绍椿は県城に戻り家を建てた。

1996年になると、二人のように沙県を飛び出した人は一万にも上った。
沙县小吃の勢いに目を付けた県政府は、毎年千~千五百人に小吃作りの訓練を施して県外に出して外貨を稼がせようという政策を実施。それが沙県に経済的発展をもたらせることになった。
by takeichi-3 | 2011-08-14 23:49 | いろいろ | Comments(0)