北京で太極拳

takeichi3.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

香港カンフー映画。。。貢献者たち

香港カンフー映画の歴史を振り返った映像です。(#^_^#)。。。



功夫の起源をたどっていくと、少林寺の僧侶によって伝わった武術に行きつく。
17世紀、朝廷に逆らう少林寺は焼き討ちに遭い、かろうじて生き残った者たちは南方(広東省が有名)に逃走。身を隠しながら武術学校を開いた。

カンフー映画の中で、主人公のトップ≪黄飛鴻≫も広東の武術学校出身。
1949年に作られた黄飛鴻が主人公の作品に主演した≪関徳興≫は、以降、同シリーズを75回撮ることになる。シリーズ最多ということで、ギネスにも登録されている。

人気の理由は時代背景にもある。
黄飛鴻は、一人の武術家というだけではなく近代中国史上最大の英雄とされている。
黄飛鴻は1924年に亡くなっている。
その名を有名にした武術はもとより、獅子舞の名手。かつ中医師だった。
故郷広東省仏山には、記念館と獅子舞学校がある。
展示の中には、「関徳興と呼ばれるより黄飛鴻と呼ばれることのほうが多かった。」と語られる関徳興が黄飛鴻に扮した人型も展示されている。

真の黄飛鴻は、正直で他人を尊重する人だった。人となりは善良で、武には公正を求めた。

敵役を務めていたのは、≪石堅≫
時を経たブルース・リー時代にも、その敵役を演じた。

初期の頃にはアクション指導はなく、動作は役者たちが個々に打ち合わせて決めた。
カメラは遠くから、「アクション!」と声がかかってから15分ほど~監督の「ストップ!」という声で終わった。

1960年早期になると、武術指導者をを要請するようになった。
劉家良もその中の一人。その後、劉家良は、自身で監督を務めるようになる。

以前の香港映画の撮影方法は、皆が現場に来てから~アクションは此処と此処で行うから、、、カメラの位置は~という感じで、試行錯誤を繰り返しながら行われた。

ジェッ・リーが主演した黄飛鴻は、丁寧に考慮を重ねながら作られた。
「撮影は、最初から大変だった。全て覚えているよ。第一集の撮影には二カ月を費やした。誰もがやったことのないアクションだったから、試し試し~梯子はピアノ線で吊るす。それから動きや速度を考え、全体のバランスを考え~その上、アクションはどうするか。。。」

香港カンフー映画全盛を築いたショーブラザース社で制作された映画の数には、誰もが感嘆する。一つが当たれば、即5週まで~一人の監督が一年に5本以上を撮影していた。

70年代の映画のテーマは仇討が多かった。
仇を討つために弟子入りして修行を続けるうちに功夫が高まると寛容な精神が培われて~殺生を行わなくなる⇒武徳を身につける。劉家良は、その修行時代を重視した。

アクション自体も各門派の訓練方法やその動きの特徴を考慮するようになった。本物の武術だから観客も感動する。武派間の戦いは観客にも支持された。

武術本来の動きの中に、強調を与えるものを加味したジャッキーチェン。

新しい型も考え出された。
≪五毒≫では、五種類の毒の名を冠した型が出現。
詠春拳が得意で、手を素早く動かせる役者には百足拳(オリジナル)を演じさせた。

それから、今までとは異なる新しい風格のアクションが現れた。
攻防を繰り返さず、一撃、一撃で相手を打ちのめしていく。ブルース・リーは、独自のアクションを創りだした。

女性からの人気が高かった≪傅声≫は、武術チャンピオン。
エキストラから始めて主役にまでなったが、自動車事故で死亡、、、

ブルース・リーが亡くなってから、劉家良が見つけた俳優はジャッキー・チェン。
アクションはブルース・リーよりも大げさでアクロバチック(複雑な動きにした)な表現をした。

「英雄が死に、おかしな奴が表れる。」と言われたというジャッキー・チェンの出現。
スーパースターではなく、反面英雄。。。という形のヒーローの誕生。

ブルース・リーのように武術学校出身ではなく京劇学校出身のジャッキー・チェン。
映画≪七福星≫で見られるような厳しい修行は、ジャッキーの動きの原点になっている。
by takeichi-3 | 2011-08-20 23:54 | 中国映画音楽 | Comments(0)