北京で太極拳

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真面目に少林寺。。。

中国中央テレビの番組≪千年菩提路≫
かなり評判の良いシリーズだそうですが、その第三回目は少林寺。



インドの僧≪跋陀≫は、その生涯の大半を旅に費やした。
先ずは西を目指してローマー帝国に~その後、シルクロードを経て北魏最初の都平城に赴いた。
仏教を敬っていた孝文帝に厚遇され、洛陽遷都後も傍らにいることを懇願されたが、自身で修行の場を河南嵩山に求めた。孝文帝は、嵩山に寺を建立。その名を少林寺とした。

時が経つにつれて跋陀の下には多くの高僧が集まり、座禅訳経を積んだ。
その頃、後に中国禅宗の祖と呼ばれるようになる達磨がインドからやって来た。
「不立文字、別開外伝」という修行規律が成立する。

当時は、南朝北朝が対立していた時代。達磨は、先ず南朝の梁武帝を訪ねた。

※その問答は有名で、色々な解釈があるようですが、、、
一例を
武:如何にして衆生を済度するつもりか?
ダ:一字の教えも、ありません。
武:私は、多くの寺を建て、多くの憎を供養し写経にも励んだ。どんな功徳を得られるか?
ダ:無功徳。
武:それは、何故?
ダ:行為は素晴らしいものですが、形の上だけ~まだ真実の功徳と呼べるものものではありません。
武:聖諦第一義とは?(聖諦とは、聖なる真理⇒仏法の最上の理り)
ダ;廓然無聖。
⇒廓然=大空がカラリと晴れて一点の雲もなく広々した様子⇒心の中に何のわだかまりもない事。
⇒無聖=悟りもなく悟った人もなく、聖も俗もなく、有難いとか有難くないに拘らない大きなモノ。
武:私に対するものは?
ダ:不識。
問答の後に、縁が無いと見極めた達磨は、嵩山に向かった。

多くの僧侶が修行を積んでいたが、達磨は彼らと寺内で暮らさずに寺外で九年壁向の修行を始めた。
そして、慧可との出会い。
⇒達磨に弟子入りを願うが六年許されず、自ら左肘を切断して心を示し許され、名を慧可と改める。

少林寺開創者跋陀の弟子の一人≪慧光≫の律学への造詣は深く、律宗の五祖と呼ばれている。
唐末まで少林寺は中国律宗の重地だったが、宋朝になると禅宗の勢いが盛んになり禅寺に。

達磨は中国禅宗の初祖。その教えが伝わった少林寺は、禅宗庭とみなされるようになった。
達磨に劣ることのなく仏理に長けていた少林寺本来の開創者跋陀の存在は次第に薄くなる。

明末清初。民間に突然現れた武術書「易筋経」
達磨の死後に見つかった鉄箱の中から出てきた「洗髄経」と「易筋経」
洗髄経は慧可が持ち去ったため失伝したが、易筋経は少林寺に残った。

この後は、
映画「少林寺」の影響もあって観光地となり、武術を商品として経済発展する少林寺。

禅=静、武術=動。。。のいずれも達磨が伝えたものだが、、、
達磨以外に独一無二の功夫を持った僧が存在した。少林寺にある神像の中に、他の寺院では見られない様相をした像がある。

元朝に一人の遊僧が少林寺に現れ、台所仕事を任されることになった。
寡黙なその僧は、時間があれば禅を組み~回りの僧たちと交わることもなく~彼の名前を知っている者さえいないほど⇒新少林寺の中で、ジャッキーチェンが演じている厨房僧の原型なのかもしれません。

時を経ずして紅布義団が反乱起こし、その内の一団が少林寺に攻め入り略奪を始めた。
この僧侶は棍を手に義団に立ち向かった。その時、その姿は数十丈の大きさに変わり~驚いた敵兵は逃げ去った。その後、この僧侶の消息は途絶えたという。

この話は、明朝の少林寺主持文乗禅師の手によって記載された書に記されている。
後に、「乃日護伽藍神」として少林寺に祀られるようになった。
by takeichi-3 | 2011-09-12 23:51 | いろいろ | Comments(0)