北京で太極拳

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黄飛鴻の真実。。。

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中国の武術家の中で、最も多く映像化されている≪黄飛鴻≫
実際の彼は、本当に映画と同じようなヒーロー的存在だったのか?を検証している番組です。



★映像が見られない場合~中国サイトですが。。。
http://v.youku.com/v_show/id_XNDYyNDUzODQ0.html?from=s1.8-1-1.2&spm=a2h0k.8191407.0.0



黄鴻飛は、実際、映像で見られるような人物だったのか?
その容貌は、彼を演じた役者たちのようにカッコよかったのでしょうか?
ネットで黄飛鴻の写真を探すと、必ずこの一枚に出会います。言い伝えによると、これは黄が唯一残した写真と言われています。ですが、意外なことに、ある人が「これは黄ではない」と言い出しました。これは一体どういうことでしょう。

この写真は、仏山にある黄飛鴻記念館に展示されているもの。
黄飛鴻の伝承者が、「これは黄飛鴻ではなく、彼の息子黄漢熙の中年期写真」と、意義を唱えました。四番目の妻莫桂蘭が、生前にいつも「黄漢熙が黄飛鴻に一番似ていた」と言っていたと。

黄飛鴻の写真は戦火で全て焼けてしまったので、妻の手元には彼の写真は残ってはいませんでした。
ある時、香港の雑誌記者が訪れ、黄飛鴻の容貌について莫桂蘭に尋ねた時に、彼女が取り出したのは黄漢熙の写真~「黄飛鴻の生前の様子に一番似ているものです」~記者は、立ち去る時にこの写真を借りて行きました。

その後、雑誌記者に問題が発生。この写真は行方不明となってしまいました。
黄家の人々は雑誌社に写真の行方を問い合わせましたが、「無くなった」というばかり。
この写真、2001年に黄飛鴻唯一の写真として出現、記念館に飾られました。

黄飛鴻の第四夫人莫桂藍によると、黄飛鴻は大柄で三尺六寸のシャツを着ていたと。。。
このような体格が、映画の中の見栄えのよい黄飛鴻とは異なっています。

見かけ以外に、映画と実際の黄飛鴻と異なるところは?
映画の中で見られるように武芸に秀でて強かったのでしょうか?
又、義侠心に溢れていたのでしょうか?彼の側にには、十三姨はいたのでしょうか?

黄飛鴻は、霍元甲、大刀王五、薫海川、燕子李三等と肩を並べて「清末十大高手」と言われています。

仏山黄飛鴻記念館に収蔵されている彼の年表を見てみましょう。ここに記録されています。
黄飛鴻、原名黄錫祥字達雲、1847年農歴7月初9広東仏山に出生。
1853年より父黄麒英より武術を学び始める。
1859年父に随いて、広州順徳一体で見世物を生業とする。

仏山は広州から車で半時間ほどの距離。昔から水路交易で栄えていました。
広東、北、西~三つの地域からの物流交易の中心地だったこともあり、当時は四大名鎮のトップ。
経済が発展していたので、余所者の芸人たちも稼ぐことができました。そして、経済の発展に伴って、ボディーガードなど警護が必要になって⇒仏山周辺には武術を学ぶ人が多く、黄飛鴻が生まれた清末の仏山は習武が最も盛んになっていました。

こんな環境下、黄飛鴻は12,3歳の頃から頭角を現し始めました。
少年黄飛鴻が大人たちを打ち負かしていく魅力に多くの人々が集まってきました。

映画≪少年黄飛鴻之鉄馬≫の中、街中で売芸をしている場面があります。
黄飛鴻と父の生活は決して楽ではありませんでした。彼の父は広東十虎の一人。仏山でも有名な武林高手でしたが、父子は街角で芸を売ることで生計を立てていました。12歳の黄飛鴻は、毎日、父と共に見世物をする場所を探しては芸を売っていました。黄飛鴻の武術レベルは、どれほどだったのでしょう?

ある日、黄飛鴻が表演を終えたばかりのところ、一通の挑戦状を受け取りました。
挑戦状を書いたのは、かなり腕利きの武術家≪鄭大雄≫。鄭自身も街角で芸を売っていましたが、黄飛鴻の人気が高かったので、面白くなかったのでしょう。そこで、小さな子供に対して挑戦状を送ったのです。彼らは、どんな風に競ったのでしょう?

黄飛鴻の三代伝承者余志偉の記述によると、
鄭大雄という有名な拳師と戦った時、鄭は釣魚棍を持って来ました。利益が絡んでいたため、彼は棍を持って黄飛鴻に挑んできたのです。

父親の黄麒英は黄飛鴻に鄭と戦うように促しました。
その時、黄飛鴻が戦った棍法は洪家四象標龍棍。棍を振り翳すや否や、鄭大雄を打ちのめしていました。この戦いは、黄飛鴻の名を高めました。その日、仏山の人々は、少年の名を記憶に刻みました。この事実が、幼かった黄飛鴻の功夫が優れていたことを語っています。

その後、彼の功夫がレベルアップする出来事が。
黄飛鴻の功夫は、彼の父親から伝えられました。黄麒英は、広東の陸阿采から学び~陸阿采は洪熙宮の師弟で、洪熙官の武芸をものにして南拳王と称されていました。彼が黄麒英に伝えたのは虎鶴双形拳。ですので、黄飛鴻が学んだのは、南少林派の武功。

ある日、黄飛鴻親子が表演場所を探していた時に、仏山豆鼓巷付近で一人の老人が売芸しているのに出くわしました。縄に鉄の錘をつけて振り回し~その素早い動きから、一目で武林高手だというのは分かりました。

その武功に魅入られた黄飛鴻。
その時、脇道からいきなり駆け出してきた人がいました。老人は縄を引き戻そうとしましたが間に合わず、頭に当たってしまい、傷を負わせてしまいます。周りの人々は、即座に老人を捕まえて警察に連れて行こうとしましたが、黄飛鴻親子が急いで怪我人に駆け寄って手当をしたので、事なきを得ました。

この、飛舞鉄錘を表演していた老人は≪林福成≫という鉄橋三の高弟。
鉄橋三もまた広東十虎の一人。親子の行動に感謝した林福成は、黄飛鴻に鉄線拳と飛鉈などの絶技を教え~一年後、これを学び終えた黄飛鴻の武芸は更にアップ。父ですら敵わなくなっていました。

改めて、黄飛鴻の武功は?
ここに何冊かの拳譜があります。どれも黄飛鴻の絶技です。双飛鉈、鉄線拳、虎鶴双形拳、工字伏虎拳、四象標龍棍、五郎八卦棍、、、

四番目の妻、莫桂藍によると、黄が得意としていたのは虎鶴双形拳と飛鉈。
彼の虎鶴双形拳は、黄飛鴻が学んだ各派の拳を基本に彼が改良したもの⇒黄飛鴻独自のものとなって、広く世界に伝わっていきました。

残っている拳譜は、黄自身で書いたものではなく、死後に弟子たちが整理したものです。。
よく聞く、彼の絶技≪仏山無影脚≫は、実際にあったのでしょうか?

伝承者の言葉を。。。
「無影脚。私が思うに~武術家たちの誰かがつけた称号。影が無いなんて有り得ない」⇒無影脚という絶技は無かったようです。

黄飛鴻の獅子舞の腕前が見事だったのは事実です。。
彼が活躍した年代には、多くの武術館で舞獅子を行っていました。武術館同士の戦いも、拳ではなく舞獅子(=実力と功夫)で対応していました。

映画の中の黄飛鴻は、優雅で生活には困っていないような感じですが、実際は?
かなり浮き沈みがあった様子。経済状態も余裕があったとは言い兼ねます。
チャンスは、二回ありました⇒広州水師武術教錬⇒最初の高潮期⇒軍に武術を指導する傍ら、自身の武術館も開きました。

その暮らしは十三年後の1886年に父親が亡くなるまで続き~その後に軍から退いて、接骨医館≪宝芝林≫を開きます。その時、黄飛鴻は三十歳に満たない年齢でした。

黄飛鴻の医館が有名だったのは、映画からも窺えます。
宝芝院⇒教育を受けていなかった黄飛鴻は、店の名前を考えましたが、なかなか思い浮かばずにいましたが、折よく、弟子の一人が進学試験に合格~祝いに贈った一対の掛幕に書かれた「宝剣謄霄漢 芝花遍上林」という言葉の中の文字を組み合わせて店の名前としたのです。

黄飛鴻の医療技術は?
本を読むのが嫌いだった彼の医療技術が高かったはずはないと言う人もいますが、、、
1888年、黒旗軍リーダー劉永福の怪我を治したという事実が残っています。
馬から落ちて、治療が困難と言われている部位を痛めた劉永服は、宝芝院の医師の腕がいいと聞きいて赴いた。黄飛鴻は、「一週間ほど入院していれば直る」と~喜んだ劉永服は、≪医芸精通≫と記した桟を贈りました。

劉永福は、黄飛鴻を軍医及び武術教錬として迎えます=彼の医術と武術のいずれもレベルが高かった。

その後、日中戦争が始まり、劉永福と共に黄飛鴻も台湾に向かいます。
台湾の日々についての記載はありませんが、彼の人生の中で第二の高潮期だったことでしょう。
その後、日中両国が馬関条約を交わしたことにより、広州に戻ってきますが、帰国してからは意気消沈して、店前に「武芸功夫難以伝承、千金不伝求師莫等」と記した紙を貼り~武術を教えることはなく、静かな生活を送るようになります。

映画、≪黄飛鴻≫で見る彼の身辺には、流行の衣装を身に纏った美女≪十三姨≫が登場しますが、実際にはそんな人物は存在していません。

黄飛鴻は、四回結婚しています。
初めは、1871年。24歳の時に父の勧めで結婚しましたが、結婚の三か月後に病死。
二度目は、49歳の頃。二度目の妻は、四人の子供を産んで病死。三度目の妻は、二人の子供を産んで病死。

六人の子供を抱えて~時代は、社会情勢が不安定だった辛亥革命前⇒稼ぐのは簡単ではない⇒黄飛鴻伝記には、60~70歳の黄飛鴻は、生活費を稼ぐために、あちこちに出かけて舞獅子表演をしていたと記されています。

三人の妻が共に病死~その後は誰も彼に新しい妻を紹介しなかった⇒ここまで、十三姨の姿は見当りません。

では、第四夫人の莫桂蘭は?
莫桂蘭と黄飛鴻は、どのように知り合ったのでしょう?

1911年端午節、64歳の黄飛鴻が梅花桩の上で表演している時に布靴が脱げ、下で見ていた19歳の莫桂蘭に当たりました。気が強かった彼女は、梅花桩に飛び乗ると黄飛鴻に平手打ちを浴びせました。自分が打たれるとは思っていなかった黄飛鴻は、咄嗟に莫桂蘭の手を抑え~ですが、相手が少女だと知ると、その手を緩めて謝ったのです。

その後、莫桂蘭の叔父が黄飛鴻に詫びを入れるために訪れました。こんな風に二人は知り合ったのです。何度か会ううちに互いの理解は深まって~叔父は結婚を勧めましたが、黄飛鴻は妻を不幸にすることを避けようと、莫桂蘭を妾として家に入れたのです。

黄飛鴻の周辺には十三姨の存在は見当たりませんでしたが、莫桂蘭がその原型なのでしょうか?

伝承人の意見では、、、
実際的に大きな違いがあります。映画の十三姨は、とてもモダン。
写真は撮るし、スカートを穿いているし~桂蘭の恰好はありきたり。

清末の滅亡、民国建立~などと激動の時代を生きた黄飛鴻。
そして、広州は革命運動が頻発していた地域。彼の一生も又、落ち着かないものでした。

その後の内戦期に店を火災で失い、気力喪失。
病に罹って~寝込んだまま、半年後の1925年農歴3月25日に78歳で死亡。
当時、葬儀費用もまかなえないほど貧しくなっていて、弟子たちがお金を出し合って広州白雲山麓に葬りました。

★最後の妻「莫桂蘭」については~こちらを⇒ http://takeichi3.exblog.jp/22743733/
by takeichi-3 | 2012-09-30 23:53 | 偉人たち | Comments(0)