北京で太極拳

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方世玉。。。レジェンド・オブ・フラッシュ・ファイター

方世玉⇒ジェット・リー主演の映画、レジェンド・オブ・フラッシュ・ファイターの主人公。。。
映画と、実際(架空の人物ですが~)、かなりキャラクターに差があるようです。



方世玉。。。
史書によると、清乾隆二十八年、清政府が大軍を福建南少林寺に派遣し、多くの僧侶を殺害して火を放った。この時、武林の中から南少林寺は消失した。これは、峰南武術界に衝撃を与えた。この事件の中、少林十虎の一人≪方世玉≫が、、、

実際の方世玉とは?
何故、年若い彼が、多くの映画やテレビドラマの主役の対象になったのか?
清軍が南少林寺に火を放った原因を作ったのか?

少林十虎とは、南少林で武術を学んだ十人。
洪熙宮、方世玉、劉裕徳、胡恵乾、方玉、方美玉など。。。最後の二人は、方世玉の兄。方世玉は、十虎の中の二番の位置=功夫が優れていた。

当時、清政府は、一切の少林十虎の資料を破棄してしまったので、方世玉の資料を見つけることが難しくなってしまった。

今日は、散逸した記載の中から、伝説の武林高手の様子を窺ってみましょう。
何故、清政府は故意に彼の資料を消滅させたのか。。。

彼の出生から始めましょう。
方世玉の故事が最も早く記載されているのは、清末の小説≪万年青≫の中の≪少林小英雄≫等。。。これが、その本です。

この本の中では、方世玉は暴徒と書かれ~その一生は、かなり詳細に記されています。
方世玉が生きていた年代と時差が少ない時の作品、多くの映画やドラマは、この本を参考にして方世玉の生涯を描いています。

多くの英雄伝がそうであるように、方世玉の故事も、先ず民間に広まり~その後、文学作品として完成されたのです。書物となる過程では、脚色が加えられていますが、需要なキャラクターや事件には真実味があります。

方世玉を主人公にした作品は沢山あります。
ジェット・リーが主演した≪レジェンド・オブ・フラッシュ≫の影響は大きく、、、映画の中、方世玉の武功は非常に高く~向かうところ敵なし。歴史的記録のなかでも、洪熙官、胡惠乾等は少林十虎と称されています。

彼の武功は、どこから?
父親の方徳と母親の苗翠花から始めましょう。
父親の方徳は、広東肇慶のシルクを扱う商人~武術にも秀でていて、昼間は仕事に励み夜は武に励んでいた。方徳は、若い頃に李という姓の女子と結婚。方孝玉と方美玉という二人の男の子をもうけ、二人を武林高手にしようと少林寺の善禅師に預けた~両名とも少林十虎の中に名を連ねるようになる。

方徳は、妻が亡くなってからは独身を通していましたが、60歳の時に、苗显と苗翠花父子を助けたことから縁が生じ、苗翠花と結婚。

苗翠花は?
≪少林五老≫の苗显の娘。。。
ので、彼女の武芸は優れていて、女ながら保錨(ガードマン)を務めていた。

方徳と結婚の二年後、苗翠花は方世玉を産んだ。
書籍によると、苗翠花は武術家の出身。方世玉を産んでから、特別な方法で子育てをしました。
毎日、鉄、酢、薬を加えた湯で全身を洗ってから、竹を裂いたもので身体を磨くようにこすり~竹から木の枝に~木の枝から鉄束子状のものに~

この目的は?
全身の筋絡、骨節血肉を鉄のように堅牢にして、相手からの攻撃に耐えられるように~撃たれるのを恐れないようにするため。

嬰児が、毎日、鉄酢薬を用いて全身を洗う~これは、どう考えても心地よいものではない。武術家出身の苗翠花は、我が子が幼いうちから武術鍛錬(三歳から開始、頭には鉄帽、足には銅の靴を履かせて跳躍の練習、五歳の時には扎馬、六歳の時に拳脚功夫、七歳の時に桩柱、十一歳の時には、ありとあらゆる武芸に通じ~特に少林拳法は熟知)

ジェット・リーやチョウ・マンチクなど、多くのスターが方世玉を演じたが、そのキャラクターは、実際の方世玉と比較して~どうなのか。。。

方世玉は、14歳の時にその名を世に現しました。
14歳は、まだ子供。そして、24歳で死亡。年齢的には、映画で彼を演じた役者たちと似通っていますが、、、
実際の彼は、背が低くて筋肉が発達していた⇒スターたちのように見栄えが良くは無かった。
推論ですが、母親から特別な鍛え方を施されていたので、身体は鉄のよう~皮膚は、デコボコだったのではないか~今となっては、推測の域をでないが~こんな感じ?
映画などにおいては、方世玉は頭脳明晰で見栄えがする様子で描かれています。

人気の高かった映画、「功夫皇帝方世玉=レジェンド・オブ・フラッシュ」の中の重要な場面~方世玉がリング上で雷老虎の妻李小環と戦うシーンがあります。彼女に勝ったら、雷老虎の娘を妻にすることが出来る。この戦いで、方世玉は李小環を打ち負かしますが、実際は?

実際、このリングが彼の一生に大きな影響を与え、南少林寺の焼打ちにも繋がり~峰南武術界にも大きな影響を与えることになります。

父母と一緒に南京で生活~方世玉は、屈強な身体で荒ぶれた性格に育っていきました。
争い事は茶飯事、ある時、遂に厄災に繋がる相手と出会ったのです。相手は三発も打たないうちに、自分の手が痛くなった。怪我をした人たちは、父方徳に治療費を要求しましたが、数が多く支払いきれなくなり、杭州へと逃げることにしました。その時、母苗翠花が方世玉も一緒に連れて見識を深めさせるように促したのです。

そこで、災厄に出遭うのです。杭州に着いた二人は広東会館に泊まり、雷老虎のリングのことを耳にする。

雷老虎とは?
映画の中で、多く見かける扮装は凶暴な印象。ジェット・リーの映画とは異なります。
雷老虎~本名は、雷名洪、綽名が雷老虎。大臣のガードマンをしていた。妻の李小環は、武当派の高手、李巴山の娘。外地から杭州に~このリング脇の張り紙には、「拳で打つことが出来たら銀百両、蹴ることが出来たら銀二百両、倒すことが出来たら五百両、お互い死んでもお構いなし」と書かれていた~実際、それまで雷老虎を打った者はいなかった。

これを聞いた方世玉は、母が持たせた九環剣靴と鋲鉄護心鏡を衣服の下に漬け、袖の中には鉄尺を忍ばせてリングに向かった~リングの決まりは、兵士×、儒釈道三教×、婦女×~素手で戦う、武器は持たない。

方世玉が雷老虎を尋ねた時、あいにくの不在。構わずに、リングに上がり老虎の弟子たちと戦い打ち負かし、立ち去る際に、「私は広東の方世玉、明日また来る」と、、、

夜に戻った老虎は、この一件を聴くや否や、方世玉が滞在している広東会館へと向かい、会館の前で拳を交えたが、勝負はつかず、翌日にリング上で決着をつけることを約束した。

当時、各種の情報誌などに掲載されていた方世玉がリングで戦うという題材の創作記事。これは、民間に伝わった冊子。いずれもリング開始の時刻が記載されています。映画では、どうでしょう。≪万年青≫の記述に近い表現。方世玉の名を、一気に高めることになったリングとは?この時、彼の年齢は14歳。

翌日、再びリングにやって来た方世玉を待っていた雷老虎。二人は、挨拶もそこそこに戦い始め~戦いは熾烈を極め、方世玉は雷老虎を打ち殺してしまった。

映画の場面では一つ欠けていることがあります。
万年青の中に記載されている九環剣靴。現在、これがどんな物かを知っている人はいませんが、その名から推測されるのは~九個の環&剣先状の物を施した靴。環は防御用、剣先は攻撃用。これは一種の武器⇒方世玉の勝利は、「???」⇒雷老虎は、リングでは素手で戦う、武器は使わない~ということを宣言していた⇒方世玉は武器を所持していた上、雷老虎を殺した。

しかし、映画の中の方世玉は少年英雄として扱われ、この外聞の悪い事実は伝えていない。
方世玉が殺した雷老虎の妻李小環も武林高手。万年青の記載によると、李小環は方世玉に報復をしようと、方世玉を捜し出して傷つけた。父方徳は、急いで妻の苗翠花を連れて来て~李小環は苗翠花には敵わず、父親の李巴山(武当山白眉道任の高弟、武芸は高強)を連れてきた。

それを聞いた苗翠花は、師匠の五枚師太(百歳にはなろうかという老尼=詠春拳の創始者と言われている)を呼び寄せます。五枚師太は、梅花桩の上で李巴山、李小環を打ち殺し~これにより、騒ぎは益々大きくなっていきました。李巴山は武当派の高手。五枚は南少林派の高手。二派の戦いの幕が開いたのです。

方世玉が引き起こしたような二派の争いですが、その裏には政治的な思惑もありました。
書籍によると、南少林派は反清復明、武当派は清政府派に頼っていた~李巴山は清廷官員の侍衛。
二派それぞれに、相手を滅ぼそうと考えていたのです。

騒ぎが大きくなっていくのを見た方徳は、大急ぎで妻と子を連れて関東肇慶へと戻ります。
肇慶は、秦朝時には軍事基地となっていた土地で民間武術が盛ん。故郷へ戻っても、子供のことが心配で、最も安全だと思われる南少林寺に子供に預けることにしました。

南少林寺の具体的な位置について、専門家たちはいまだに争っています~福周、泉州、福清、福建~南少林は焼き払われたという話が伝わっていますが、、、

福建南少林寺は、河南崇山少林寺とともに南派拳の発祥地。
明清期の記載によると、東南沿岸が倭寇の攻撃を受けた時、南少林寺が多くの僧兵を派遣して闘争に参加して威力を発揮。その勢力の強さを恐れた乾隆帝は、これを焼き払います。焼き払い事件のきっかけとなる事柄に、方世玉が少林寺に逃げ込んだことも~

南少林寺に着いてから、方世玉は善禅師から武術を学んでいます。
善禅師は南派武林の高手。少林五老の一人。洪拳門人は彼を始祖として尊敬していました。当時は、洪熙官や胡恵乾など多くの弟子たちがいて、方世玉は彼らと共に少林三十六房⇒内功、外功、軽功などを学び、腕を上げて~少林十虎のうちの第二位に名を連ねるほどになりました。

方世玉が少林寺で学んだのは武のみ。仏は学ばなかった⇒南少林寺は、反清復明の勢力となる戦士が必要⇒軍事学校的要素。

少林寺に至ってから気持ちが平静になっていた方世玉に対して、親の仇を取ろうとしていた胡惠乾は、南少林寺を抜け出して西静錦堂に向かった。その街で小さな店を営んでいた父親は、紡績工場の工員に打ち殺されたのです。胡惠乾自身は危ういところを方世玉に救われ、共に少林寺にやってきて武術を学びました。

胡惠乾は、十人以上もの紡績工員を殺し~その彼の行動が面倒を引き起こします。
殺害された中に、張錦洪という武当派の弟子がいて~これが、もともと緊張関係にあった武当と少林を刺激。武当派高手白眉道人は、南少林寺を滅ぼそうと~

五枚師太、善禅師、白眉道人、憑道徳、苗显が少林五老⇒五人は南少林出身の師兄弟。五枚が大師姐、白眉道人と憑道徳は武当派に~五枚師太は南少林寺に残った。武当派の白眉道人は、李巴山と李小環の仇を打とうとしたが、五枚師太と善禅師が連携しているので勝ち目がなかったので、この二人を仲たがいさせ~五枚師太は武当派へ~

そして、朝廷の力を借りた。
「南少林派は反清復明」を利用して、反朝廷勢力の弾圧をと訴えた。朝廷は喜び、千人以上の清兵を派遣~南少林寺に火を放った。僧侶たちは大いに抵抗し~戦いの中、白眉道人、胡惠乾が戦死。洪熙官は弟子を引き連れて逃げ延びた。方世玉と五枚師太は果敢に戦ったが、、、いずれが勝ったのか?

武芸に秀でた五枚とはいえ、高齢。幼少の頃から鋼のように鍛えられた方世玉は、若く力強く戦闘心も旺盛だったが~全身鋼のように鍛えられた者にも一つだけ致命的な弱点があった~全身、どこを攻撃されても恐れなかったが、一か所、攻撃されたら命取りとなる部分が、、、

五枚師太は戦いながら、方世玉の弱点を探し~ついに捜し当てた⇒谷道穴=肛門。
弱点を知った後、どうしたら攻撃できるような体勢に持ち込めるのかを考え~何度か打ち合いを繰り返し~五枚は地に倒れこんだ~チャンス!と、方世玉は左足を上げて五枚を蹴ろうとした~この時とばかり、五枚は方世玉の弱点肛門を蹴り上げた~起き上がった五枚は、再び倒れている方世玉の肛門を攻撃し、その命を奪ったのです。

方世玉の死について、民間に伝わっている話があります。
火焼南少林寺の頃、方世玉と胡惠乾は、清兵の囲いを破って~故郷の肇慶に戻り~鼎湖山の慶雲寺内で反清組織を作り少林拳を教えたが、清兵の攻撃に遭い殺された。その死因は、やはり、谷道穴に受けた傷によると。

方世玉が死んだ後、洪熙官は敵の囲いを破って逃げ出し、巷で少林拳を伝授した。広東肇慶鼎湖山には方世玉の墓と呼ばれる石碑があったが、誰かに持ち去られたと~

火焼南少林寺という事件を、一部の歴史学者はその真実性を疑っている。清嘉慶年間の西山雑誌の中に記載がある~乾隆二十八年秋詔焚少林寺~その後、少林拳は民間に流出し、陸阿采、鉄三橋、蘇乞児、黄飛鴻など多くの広東拳の英雄を産み出します。

多くの伝説から、方世玉の死亡年齢は24歳。
もし、乾隆28年の火焼南少林の時に死んだとしたなら、方世玉が生存したのは1739年から1763年なのですが、歴史的な資料は捜し出されていません⇒武術界においても、方世玉と洪熙官の存在は確認されていません。

1928年、中国で初めての武侠映画「火焼紅蓮寺」が撮影された時、方世玉がリングで戦ったという話題が~1950~60年代、香港の黄飛鴻シリーズの映画が数十本製作されました。方世玉の映画もまた多く~どうして方世玉が観客に受けるのか。。。
by takeichi-3 | 2013-08-04 23:57 | 偉人たち | Comments(0)