北京で太極拳

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王培生。。。呉式太極拳

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10月開催の≪中華武術大学堂名家講堂≫
今年は何を習おうか~と迷っています。
最近、色々な老師たちから、それぞれの太極拳理論解釈を聞くのが好きになっているので~あえて、昨年とは異なる老師を。。。


候補の一人。。。
張全亮班(著名な呉式太極拳伝承者、名家王培生老師の高弟)
内容:王培生伝呉式太極拳37式。動作の詳しい説明と健身作用解析。

で、張全亮老師の老師による、今回学ぶことになる套路。。。
37式を通すのに、18分かけています。




≪王培生:原名王力泉≫
1919年河北省武清県生まれ。
五~六歳の頃に父母と共に北京に。
父親は共和医院の工員をしていて、東四演楽胡同に住居を構えた。

胡同の中には大きな縁日を催す場所があり、そこに、滄州呉橋からやってきた雑技団が常住していて。
槍や棒で遊ぶのが好きだった王力泉は、よく雑技団の練習を見に行っていた。中でも、朱師傅のとんぼ返りが見事で。王力泉も雑技団の子供たちが練習する傍らで、その動きを真似て、時には着地に失敗して鼻を打つことも~そんな彼を見た朱師傅がコツを教えてくれた。師傅が棍棒を彼の腰に当てて一掬いすると楽々と返ることが出来~以来、要領を掴むことができた。

朱師傅の指導もあって、一気に上達~
一メートル四方のテーブルの上で、連続36回の宙返りが出来るようになり、観客たちを沸かせた。

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最初の武術の師となるのは八卦掌名師の馬貴。別名“螃蟹馬”。
木材工場を営んでいたので、“木馬”とも呼ばれていた。
八卦掌の祖師董海川より学び、後に尹福を師として~尹氏八卦掌の第二代伝承者となった。

学武の為、親から受け継いだ木材工場を売ってしまい、晚年は蟹(螃蟹)を売って生計を立てていたのでこの呼び名がついたという説と、彼独特の歩型(蟹の足のような~)からという説もある。

当時70歳を超えていて。。。
武芸に秀でてはいたが、弟子をとってはいなかった。

いつも、東四甘雨胡同にある親戚の家に立ち寄っていた。
王培生一家が引っ越してきた先は、この親戚と同じ院子。

ある日、王培生が院子内で夢中になって槍を弄び、入口に向かって一突きしたその時に馬貴が入って来て~王培生には勢いよく馬貴の喉を目がけて伸びていく槍を止める術がなかったが~老人は身を翻すと同時に槍を掴み、通りを隔てた壁の上へと飛ばした。

「誰の家の子だ。こんな悪戯をして。人を傷つけたいのか!?」と怒鳴った。
王培生の父母が駆けつけて謝り、馬貴の親戚のとりなしもあって、怒りが収まった馬貴~しげしげと王培生を眺め、“なかなか見込みがある子供ではないか”と、八卦掌を教えることにした。

王培生は、12歳の時に張玉蓮に弾腿を~同年末に、楊禹廷に太極拳を~同時に三門の武術を学んだ。

毎朝、日が昇る前に起き出し~歩いて天安門広場まで向かい、硬功。
それから十路査拳、十路弾腿、八卦掌を練功~労働民文化宮が開門すると、そこで太極拳の練習。

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当時、北京に成立された太極拳研究会は、王茂斋(師爺)と楊禹廷が責任者だった。推手が盛んで、中でも張柏久と楊玉琦の二人の技術が秀でていた。

1934年陰暦6月の早朝、この二人の高手を王培生が倒し~北京の武術界で“推手神童”と評判になり、孫弟子の身分ではあったが、王茂斋(師の師)より直接指導を受けるようになった。

18歳の時に、楊禹廷より独立開館の許しが出る。

≪楊禹廷≫
閉鎖的ではなく~教えを請う者があれば、分け隔てなく丁寧に指導。
他派の拳に興味を示す優秀な弟子がいると、弟子を伴って先方へ挨拶に赴いたとか。。。
f0007580_0154854.gif≪先輩たちの残した拳を正しく受け継ぎ、正しく伝え残していく≫
感動的な逸話が多く残る、武術をこよなく愛した師傅です。
by takeichi-3 | 2014-03-22 23:56 | 偉人たち | Comments(0)