全世界に太極拳を普及するのに貢献した≪楊露禅≫の足跡を辿った番組です。。。
陳家溝で修行~六年の後、進歩を自覚した楊露禅は故郷の広平府へと戻った。
当時の広平府には多くの武林高手がいて~腕試しを挑んできた武林高手に負けてしまった。
敗けたのは、自身が陳家溝で学んだ「綿拳」のせいではなく自分が未熟だったからだと、直ぐさま陳家溝へと戻った⇒再び、六年の修行を積むが~師傅陳長興は秘訣を伝えない⇒自身の生活の糧である技術を余所者に与えたりはしない~が、常識。
又も六年。苦行を積んで故郷へ戻った楊露禅。
再び、腕を試そうとする者が出現~わざと手を引っ張ったり、ぶつかってきたりしてきたが、かなりレベルアップしていたので負けることはなく得意になっていた。
そんな楊露禅に不服を感じたのは、武禹襄⇒当時20歳を超えていて~楊露禅より13歳年下=裕福な官吏の家に生まれ、幼少より武術を嗜んでいた。
楊露禅の腕を確かめてみたかった武禹襄は、彼を家へと招いて数回手を合わせたが、勝負はつかなかった。自信を持ち始めていた楊露禅の気持ちは複雑~十数年の修行を積んだのに、自分よりも武術歴の短い若者を倒すことができない~
太極拳は養生を主としているので、楊露禅は倒すことをしなかった~という見方をする人もいるが、、、
後に、楊露禅が北京で得た名称は「楊無敵」⇒相手を打ち負かした事実を証明している。
そして、三度目の陳家溝修行。
目標を定めたら諦めない~執着心が楊露禅を成功に導いた。
思いがけず、再び現れた楊露禅の気持ちに~真諦を手にするまでは死んでも死にきれないだろうと判断した陳長興は、全ての技術を授けた⇒十八年を費やた。
別の説。。。
三度目の陳家溝行きに際して、今度は無駄にならないように~又、取得した技術を自分に教えるという条件を提示した武禹襄が、それなりの金銭を楊露禅に提供した。
清代、学問も武術も金持ちでなければ学ぶことができなかった⇒金銭の支払いがなければ、本質的な物は与えて貰えない⇒陳長興の元で衣食住の面倒を見て貰っていた楊露禅が、先祖伝来の財産である拳の真諦を授けられることはなかった。
無敵の武芸を身に付けて故郷の広平府に戻った楊露禅。
陳家溝では十種の実戦套路と点穴法、刀、槍、棍棒なども取得。
現在風に例えるなら、優れた技術と高学歴を備えた⇒高給を取れる条件を備えたことになる。
当時、武芸者が就ける職業は限られていた。
兵士、ボディガード、拳師、山賊。
四十歳を越えていた楊露禅は、北京で官吏となっていた武禹襄の二番目の兄の紹介で、張という富豪の家の武術教師(子弟の武状元試験の為)として雇われた。
北京における楊露禅最初の職業。
多分、給料はそんなに高くはなかっただろう。
張家には、既に多くの武術家がいて~体格が良かった彼らに比べ小柄だった楊露禅を、雇い主は軽んじていた⇒武術家たちが一堂に会する時、末席に座らされていた。
張氏が、「お前が得意とするのは、長拳か少林拳か?」と尋ねた時、
「長拳でも猴拳でも少林拳でもありません。綿拳です」と答えた。
張氏は蔑んだ口調で、「綿拳で人を打てるのか?」と、、、
修養を積んでいた楊露禅は、穏やかな口調で、
「綿拳は人を打つためのものではありませんが、いざという時には、勝ちます」と、、、
続きは明日。。。m( _ _ )m