北京で太極拳

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太極拳の普及~楊露禅の功績②

昨日の続き。。。(#^_^#)



雇い主に乞われ、同僚の武術家たちと腕比べをすることにした楊露禅は、瞬く間に相手を倒した~喜んだ主人は、即座に楊露禅を上座に座らせた。

この一件が楊露禅の名を広めたので多くの人が挑んできたが、負けることはなかった⇒「楊無敵」
その名が大きくなるにしたがって、面倒なことも起った。

「楊無敵」を耳にして、凄腕の人物が挑んできた。
当時の北京には多くの武林高手が集まっていたが~晩清代の十大高手の一人、八卦掌創始者薫海川。

楊露禅よりも二歳年上。河北出身。
人を殺め、北京へと逃げてきて~王府に入り込み大監となっていた。楊露禅が使う太極拳の評判を聞き、腕比べをしたいという気持ちを抑えきれなくなった。

この二人の腕比べについて、民間には多くの伝説がある。
視線を交えた瞬間に勝敗が決まった。
挨拶の時、触れ合った瞬間に勝敗が決まった。
手を合わせた後、三日三晩経っても勝敗が決まらなかった。

当時の武術家たちは武徳を大切にしていた。
お互いが武によって生活をしている⇒その生活の糧を奪うことがないように~互いの名誉が傷つかないように~観客の目で勝敗が見極められるような戦い方はしなかった。

楊露禅と薫海川は教養のある戦い方をした。。。
薫海川~鳥を籠から放ち、空高く飛んでいく鳥を軽々と飛び上がって捕まえた。
楊露禅~その鳥を手に乗せると~鳥は、飛び上がる際の蹴り出しを化され、飛び立つことが出来なかった。

楊露禅を主人公としたテレビドラマ≪太極宗師≫の中、二人の格闘シーン。
結果、勝敗はつかず~二人は親友となった。

北京での名声は益々高まり~
武禹襄の二番目の兄の推薦で、端王府へと赴き武術教官を任ぜられる。その当時は太極拳と呼ばれていなかった⇒「綿拳」⇒旗人(満族)のみ教え、漢人には教えなかった⇒近八旗のみ、外八旗には教えなかった。

太極拳は、どのようにして現在のように普及するに至ったのか。。。
楊露禅第四代伝人の楊振鉾によると、
一代宗師楊露禅~曽祖父~祖父~父楊澄甫へ~三代人を経て。。。

楊露禅の生徒たちの多くは王公大臣や貴族たち⇒恵まれた生活、耐力はなく病弱、辛苦に耐えられなかった⇒彼らに必要なのは保健だと考えた楊露禅は、難度動作は簡単に~柔らかく動き易いものに⇒王公大臣や貴族たちの身なりにも適していた。

その後、子孫によって改修され~楊式太極拳としての型が定まった⇒大小二種の套路⇒柔和緩慢、舒展大方、速度緩均、剛柔内含、深蔵不露、軽沈兼有~この拳は、北京、天津一帯に大きく影響を及ぼし、日に日に学ぶ者が増えていった。

この頃、陳家溝の太極拳は、陳姓内部のみに伝えられていた⇒河南陳家の拳を知る者はいなくても、河北楊家の拳は皆に伝わっている~と言われていた。

北京で厚遇されていた楊露禅の蓄えは多く、故郷に不動産を購入~子孫たちは清廷で武官を務め栄えた。

同治帝の師、書家≪翁同龢≫が試合を見た後に、その技術の高さを褒めた文がある。
「楊身体神速、虚実莫測、身似猿猴、手運如球、猶太極渾圓一体也」
そして、「手捧太極震環宇、身懐絶技圧群英」と記した联を楊露禅に贈った。

出世していく楊露禅~
親王や宦官子弟に拳を伝え~次から次へと、多くの宮廷人に伝わっていき~民間にも流伝~習いたくても習えない者が出現~陳家溝から伝承者を招けば良いと考えた者がいて~(乞われて、陳家溝から北京にやってきたのは陳発科)~これより、陳式太極拳の普及が始まる。

楊式太極拳は、呉式、孫式へと発展していく。
中国で、一番行っている人が多いスポーツは太極拳⇒楊露禅の功績による。
by takeichi-3 | 2014-05-27 23:57 | 偉人たち | Comments(0)