北京で太極拳

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孫臏拳(sun bin quan)。。。

孫臏拳。。。別名、長袖拳と呼ばれている。
大昔の漢民族は大袖の上着を着ており、その長袖を駆使し敵と戦う方法があったため、




孫臏拳。。。中国サイトのHP⇒ http://www.sunbinquan.net/index_cn.asp
孫子兵法で知られる孫武の後百年後の春秋時代末に生まれた斉の軍事学者孫臏よって創始されたとされている中国武術の一つ。

≪孫臏≫
伝説の兵聖(兵法家)と言われていて、実存していたのかどうかが定かではなかった孫臏だったが、1972年山東省の銀雀山で発見された漢墓の中から孫臏兵法を記した竹簡が発見され、実在の人物だったことが証明された。

臏=罪によって、脚を切りの刑に処せられた者という意味をもつが、、、

阿(現山東省陽穀県)・鄄(現山東省濮県)に生まれている。
若い頃、龐涓と鬼谷子の下で共に兵法を学んだ。
龐涓は魏に仕官して恵王の元で将軍になることができたが、孫臏二分がは及ばないと感じて、孫臏を罪に陥れ~脚を切断する刑と額に罪人の印である黥を入れる刑に処した。その後、斉の使者が魏へとやってきた際に密かにこれと面会して、使者と計らって魏を脱出することに成功した。

斉では、将軍田忌の客となる。
ある時、斉王と公子たちと田忌が馬を三組ずつ出して勝負する競馬を催した。孫臏は田忌に対して、上等の馬が出る競走に田忌の所有する下等の馬、中等の馬が出る競走に上等の馬、下等の馬が出る競走に中等の馬を出させることによって、田忌を二勝一敗させ千金を儲けさせた。これに気を良くした田忌は王に孫臏を推薦し、王は孫臏を兵法の師と仰ぐようになった。

魏が趙を攻撃し、趙の都を包囲した。
趙は斉に救援を求め、斉王は田忌を将軍とし孫臏と共に派遣したが~孫臏は趙に向かおうとする田忌を「喧嘩を止めさせる時は殴り合いに加わるものではなく、絡んだ紐を解く時は無闇に引っ張らないものです」と途中で留めて、魏本国を攻めさせた。魏の本国には弱小老兵が残っているだけだったので、趙を包囲していた魏の主力軍は慌てて包囲を解き急いで引き返したが、強行軍で疲労困憊したところを斉軍に攻められ大敗~趙を救った。

13年の歳月が流れ、魏が龐涓を将軍として韓を攻めると~再び田忌が将軍、孫臏が軍師となって韓の救援に派遣された。斉軍は前回同様魏の都を攻めようとしたが、龐涓も流石これに備えて本国にも精強な兵を残しており、斉軍を足止めする一方、韓攻略隊も引き返させた。防衛隊と攻略隊で挟撃しようというのである。これを知った斉軍は撤退するが、龐涓は打撃を与えるべく追撃する。撤退戦であれば追撃する側が圧倒的に有利だからである。

しかし、孫臏は撤退する振りをしつつ、龐涓の「魏の兵は命知らずの猛者だが、斉の兵は臆病者だ」という驕りを逆手に取り、斉軍の陣営の竈の数を前の日の半分、次の日は更に半分という風に減らしていき、脱走兵が相次いだかのように偽装していた。これを見た龐涓は、更に勢いづいて足の速い騎兵だけを連れて追撃を図った。一方、孫臏は、その先の隘路である馬陵の地で、仕込みを始める。木の枝に板を吊るして「龐涓この樹の下にて死せん」と書き記し、道の両側の兵を伏した。

果たして計算通り、夜半になって当地に龐涓が到着し、板を見つけてこれを読もうして火を掲げた。これに伏兵が一斉に矢を放ち、魏軍は慌てて逃げ出した。自らが負けたことを悟った龐涓は自刎し、魏の太子は捕虜にされ、司令官を失った魏軍は斉軍に蹴散らされることとなった。

この馬陵の戦いの勝利により、兵家孫臏の名は天下に響いたと伝えられる。孫臏のその後に付いては史書に記述が無い。
by takeichi-3 | 2014-06-04 23:57 | 武術各派 | Comments(0)