北京で太極拳

takeichi3.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

何を食べる?。。。(o^0^o)Ψ

一流アスリートたちが試合前に摂る食事。。。健康志向かと思ったら、そうとは言えず。
ウサイン・ボルトは、マックチキンナゲットを20個とか。。。



栄養バランスとか、食事には気を使う方ですが~時折、高カロリー食品摂取が抑えられなくなります。

「食欲があるっていうのは、内臓が丈夫なのよ。食べられるってことは元気の証。抑えるっていうことがストレスになって、体調を崩すことも。多くの病気の原因はストレスっていう説もあるから」
と、、、気功に参加している人生の諸先輩たちが言っているのを聞いて~
以前、丸ごとコピーしたことがある文章を思い出しました。


f0007580_22365423.giff0007580_22373770.gif今日も又、過去ブログ。。。
食について~長いですが、面白いです。。。((((((/-_-)/

食事に“美味しい”は要らない?―ガソリン補給のためだけに食べる人々
食事は私たちの生活の基盤をなすものですが、食生活にはその人の生活の様子が如実に反映してくるものです。

「うつ」の方々の治療を行なう中で、クライアント(患者さん)に食生活の内実を仔細にうかがってみると、その人が「うつ」に陥る背景となった問題点がそこに象徴的に表れていることがわかります。
そこで、食生活という観点から、現代人が陥りがちな不自然な状態について検討してみたいと思います。

「同じもの」を食べ続ける人々
昼食は、いつも同じカップ麺を食べていた。
毎朝、同じファミレスで同じモーニングセットを食べ、昼は数か所のランチを延々とローテーションし、夜はいつもコンビニ弁当を食べていた。このように、「同じもの」を延々と食べ続けるような食生活になっている人が案外少なくありません。

このような食生活を続ける人にとって、食事はいわばガソリン補給のようなものになっていて、その都度「何を食べようか」と考えること自体が面倒に感じられるので、メニューが必然的に固定化してしまうようです。

「生き物の最大の特徴は、その即興性にある」
このように固定化した食生活では、まさにその即興性が失われてしまって、「死んだ」食事になってしまっていると言わざるをえません。しかも、このような食生活になっている場合には、その料理の内容自体も、冷凍やフリーズドライなどのプロセスを経た料理で済ませていることが多いようです。

しかし、料理とは単にカロリーや栄養を補給するためだけのものではなく、いわば「魂の食べ物」でもあるわけですから、たとえ栄養分析的には同じものであっても、その作られる過程において「心が尽くされたもの」であるかどうかという点は重要です。つまり、それが「生きた」料理であるかどうかは、それがいかにして作られたものなのかによって左右されるものなのです。

その意味で「死んだ」料理ばかりが続いても、そこに違和感を覚えないというのは、生き物としてはかなり不自然な状態に陥っていると考えなければなりません。つまり、「生きた料理」か「死んだ料理」かといった「質」の判断が行われていないというのは、知らず知らずのうちに、自分が機械のような「死んだ」状態に近付いてしまっていることを表しているのです。

人間の身体に、足し算引き算は当てはまらない
健康のために、毎日必ず○○を食べるようにしています。
不足がちな栄養素を、きちんとサプリメントで補っています。
これらは一見、とても健康に配慮しているように思える発言なのですが、しかし、そこで実際に行われている食行動自体は、必ずしも適切なものだとは言えません。

ここで問題なのは、「足りないものは補い、過剰なものは摂取を控える」といった足し算引き算レベルの算術的発想を無批判に信奉している点と、「毎日必ず」という形で、生き物の即興性を無視した固定的な「習慣」に縛られている点です。

このような考え方が流布されたのも、そもそも西洋医学が初歩的な算術的発想を基盤にしがちであり、また現代の栄養学もそれにならって同様の発想になってしまっていることに原因があると考えられます。
食事に“美味しい”は要らない?

「ガソリン補給のためだけに食べる人々」
このような算術的発想は、人間という生命体を機械と部品のように捉えた「死んだ」人間観にもとづいていることに留意しなければなりません。

動物には、基本的にある程度は必要な成分を合成する力があるので、草食動物がタンパク不足になったり、精進料理を食べているお坊さんが栄養失調になったりはしないものです。

たとえば、糖尿病や肝機能障害を内科医に指摘され、食事制限をするよう言い渡されている方が、逆にその食事制限がストレスになって経過が芳しくないことは珍しくありませんが、そんな方にあえて「本当に食べたいものを喜んで食べる」ように勧めてみたことがあります。通常の内科的発想ではあり得ないと思われるかもしれませんが、この方法できれいに治ってしまったケースを、私は実際にいくつも経験しています。

もちろん、これは安易に一般化すべきことではありませんが、要点だけを言えば、「量」だけの算術的発想のところに「本当に食べたいもの」「喜んで」といった「質」の観点を導入して、その人の閉塞的状況を打開したということなのです。

人間の身体を機械と見なした算術的発想からすれば、私の行なったアドバイスは一見非常識なものに見えるかも知れませんが、しかし、むしろ人間の精神の存在を度外視してしまって、足し算引き算の発想でしか問題を捉えられないことが問題なのです。

つまり、なぜそのような身体疾患が出現したのか、その人が偏った食生活に陥っていたのはなぜか、といった精神生活も含めた全人間的な視点で問題にアプローチすべきなのであって、これを行わずして、通り一遍の機械論的人間観にもとづいて「量」的な食事制限を行なっても、うまくいくはずはないのです。

身体に良いから……という本末転倒
これ身体にいいらしいから、食べてみない?
こういった食べ物の勧め方も、今日では決して珍しくないものになっていますが、現代人の食生活が「頭」優先になってしまっていることが、こんなところにも表われています。

この場合の「身体にいい」というのは、栄養学的知識にもとづいた価値判断です。しかし、栄養学的知識だけでは、人間を機械として固定的に捉えてしまっているので、即興的で動的な生き物として捉える視点が不足しています。

真の意味で「身体にいい」ものとは、「頭」の仕入れた知識などによらずとも、本来は「心」(=「身体」)側が「食べたい」という自然な食欲の形で教えてくれるものです。「身体」は、その日その時の体調に合わせて、その時に必要なものを間違いなく教えてくれるものなのです。

本来の「心」(=「身体」)が発する自然な食欲は、毎日同じものを食べたがったり、過剰に何かを欲したりしないものです。たとえば、寒い日には体を温めるものを欲し、暑い日には体を冷やしてくれるものを欲するようになっていたりと、見事なバランスを発揮してくれるのです。

哲学者ニーチェも、次のように述べています。
わたしの兄弟よ、君の思想と感受の背後に、一個の強力な支配者、知られない賢者がいるのだ、――その名が「本来のおのれ」である。君の肉体の中に、かれが住んでいる。君の肉体がかれである。
君の肉体のなかには、君の最善の知恵のなかにあるよりも、より多くの理性がある。

このように、われわれの「身体」とは、「頭」の理性などをはるかに超えた、信頼に足る見事な判断を行なってくれる場所なのです。

「美味しい」を信じる
われわれの味覚や嗅覚は、そのとき「身体」が必要とするものに対して「美味しい」とか「いい香り」というように「快」を感じるようにできています。

たとえば、漢方薬を風邪のように半日から一日単位で「身体」の状態が変わっていく病態に用いてみると、ひき始めの急性期にふさわしいクスリ(葛根湯など)はその時期には好ましく感じますが、発汗を経て急性期が過ぎるとあまりおいしくは感じられなくなります。

つまり、クスリ自体はまったく同じものであっても、「身体」の状態が変化することによって、その感じ方はダイナミックに変化するのです。

これは、食べ物全般についても当てはまることで、私たちの食欲は最も正確にその時の「身体」が必要とするものを「食べたい」として教えてくれ、そしてそれを食べて「おいしい」と「身体」が喜ぶようにできているのです。

ただし、「私は○○が好物だ」「もったいないから食べてしまおう」「高価なものだから食べよう」といった「頭」由来の「偽の欲求」が関与している場合には、食欲がそのノイズによって撹乱させられてしまい、この原則が当てはまりませんので、注意が必要です(「偽の欲求」を見分けるコツを大まかに言えば、固定的・打算的・人間関係への配慮など非生理的な要素の混入があるかどうかという点にあります。

「身体にいいから」は、身体に良くない!
現代人の食生活に関する問題は、これ以外にも多々あげられますが、いずれも問題のエッセンスは共通しています。それは、本来の「身体」によって食べる食生活が軽視されてしまい、不完全な知識に振り回されて、「頭」で食べるような食生活になってしまっているということです。

特定の知識や習慣に振り回されることは、それが部分的にはどんなに「正しく」見えても、即興性を持つ動的な生物としての人間にとっては、決して常に「正しい」とは言えないということを、私たちは知っておかなければなりません。

TVなどで「○○が身体にいい」となれば、その食品が急に市場で品薄になる現象もあるようですが、しかし、少なくとも大自然にある食材はことごとく何らかの意味で、われわれの「身体にいい」ものであるはずです。むしろ、そのような一面的知識に振り回されて、自然な食欲を無視して同じものを食べ続けるほうがはるかに有害なのです。

大切なことは、私たちがその時の自分の「身体」が何を欲しているのかという声を歪みなく聴き取れるように、日々心掛けることです。つまり、「今、自分は食べたいのかどうか?」「今、自分は何が食べたいのだろう?」といった感じで、自分の「身体」にていねいに耳を傾けてみるのです。

「身体」の声が聴き取れる状態とは、先ほどの図で言えば「頭」と「心」(=「身体」)の間の蓋が開いているような状態に相当します。これが、精神的にも身体的にも最も自然で好ましい人間の状態です。

「うつ」のみならず人間の不健康な状態とは、「頭」が独裁的に肥大化し、「心」(=「身体」)を無視したことによってひき起されるものです。私たちの日常の基本である食生活で、「自分の食欲に耳を傾ける」というささやかなことを心掛けるだけでも、自分自身のバランスは少しずつ自然な調和を取り戻してくれることになるのです。
by takeichi-3 | 2014-06-30 23:53 | 中国映画音楽 | Comments(0)