香港の武術環境をレポートした動画です。。。
後半に、黄飛鴻の妻:莫桂蘭の弟子が出演。黄飛鴻が亡くなった後の彼女の様子を語っています。
50,60年代、香港では武術を習うことが流行していた。70年代、ブルース・リーの映画の影響もあって、更に多くの人が武術を学んだ。
当時の練習の殆どは、ビルの屋上で行われていた。
私が師父周永徳に武術を習ったきっかけは、彼が旺角マーケットで名を馳せていたから~父と師父の仲が良かったから~最も大きな理由は、喧嘩をして怪我をした時、そんなに喧嘩が好きなら修武が良いだろう~と父に連れて行かれて以来。。。
伝統武館の紹介。。。神壇には師公(老師の老師)鄧芳の写真。師公は、黄飛鴻の弟子。
練武人たちは関帝(関羽)も祀ります。それから、師父が漁民だったことから、天祖娘娘(媽祖)も。
それから、練習場所。。。
まず、拳が一通りになってから、武器。それから舞獅や太鼓。
子供の頃は、夕飯を終えて、午後7時頃から練習。
最初、師父に動作を見てもらい、良くできていたら次の動作を教えたもらえた。次の日、教わった動作を一通りこなし~師父にアドバイスをもらって~又、最初から一通り。。。こんな練習を十年以上続けた。
広東省の三水から出て来たという師父は、市場で魚を売っていた。友人が腰を痛めた時に治療してくれたのが師公の鄧芳。その友人に練武を見に行こうと誘われて~気に入ったので習うことにした。
最初に習ったのは、伏虎、工字、虎鶴、五形、棍、刀など。
武術を習ったのは、町中に理不尽な奴らが多かったので、自主防衛の為。
70年代に師父は旺角マーケットに屋上付きの部屋を購入して、自身の団体を設立。徐々に弟子は増え、最高時には70人の弟子がいた。弟子入りの時に20元を収め、後は、学費を払うものもいたし、払わない者もいた。
80年になると、徐々に弟子が減っていった。
若者たちは、武術を求めなくなっていたし~エレベーターなしで、9階まで登って来なくちゃならないし。。。既存の弟子たちは、結婚をして~子供が出来て~生活の為に働かなければならなくなったりで、練武に来る時間が少なくなった。
黄飛鴻の妻、莫桂蘭を師と仰ぐ李燦窝老師。
広州にあった薬房「宝芝林」が火災にあってから、香港の私の父親の所に身を寄せていて、昼間は。学校で体育の時間に武術を教えていた。
1936年から1940年、生活は苦しかった。私の母のことを実の娘のように可愛がっていた。
その後、莫桂蘭は学校裏に武術館を開いた。当時の学習法は個人レッスン。学生は多くなく8~10人位。学費は数元で高くはなかったが、生活はしていけた。
その後、黄飛鴻国術団を創設。80年代に入って、国術の人気が下火になるにつれて、経営は困難になっていった。
九百元だった家賃が二千四百元になり、閉館を決断せざるおえなくなった。
1982年に亡くなった莫桂蘭。ある時、黄飛鴻の拳を広めることができないと泣いていた。