北京で太極拳

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楊露禅スキャンダル。。。北京に赴いた理由

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楊露禅が北京に赴いた理由。。。
武禹襄の紹介だという説が一般ですが、、、
呉図南や王培生が語っていた故事があって、面白かったので~(#^_^#)

楊露禅(1799年~1972年、河北広府人)
陳家溝に赴いて陳式太極拳第六代伝承者陳長興より太極拳の奥義を学んだ後、故郷の永年県に戻った楊露禅は太和堂薬店で太極拳を教えて生活を維持していた。

多くの人が腕比べにやって来て~挑戦者を傷つけてしまい、官憲に追われ~北京へと逃げてきた。
当時、北京東安市に天義順という醤菜(漬物)屋があり、張四胖子という綽名の男が経営していた。張四胖子の醤菜は宮廷のみに販売されていて~宮廷と関わりがあったことで、それなりの権力を持っていた。

楊露禅が北京にやって来た頃、張四胖子は二人の子供に読み書きを教えてくれる人物を捜していて~店の前にあった粥店店主の丁紫藍に、紹介してくれと頼んでいた。

ある日、手持ちの金が少なくなった楊露禅が粥店に現れ~粥を食べながら、店主に「何か仕事はないか?」と尋ねた。「何が出来るのか?」と尋ねる店主に「読み書きなら」と、、、張四胖子の依頼を思い出した丁紫藍は、楊露禅を張四胖子に紹介し~これより、張四胖子の家に住み込んで二人の子供に読み書きを教えることになる。

繁盛していた張四胖子の家には二十人余りの使用人たちも居住していて、毎日練拳していた。
楊露禅が張四胖子家の家に来てから半年ほど経った頃の夜、書斎の近くの小さな部屋で休んでいると、花園の方で誰かが争う音が聞こえてきた。楊露禅が花園へと向かうと~忍び込んだ無法者と使用人が格闘していて~ある者は既に組み伏せられていて、仲裁に入った楊露禅は、無法者たちを打ちのめして「二度と、面倒をかけるな」と、部屋に戻った。

翌日、一介の教師に救われたことを恥じ入った従業員の中に辞職を願い出る者がいて~これを聞いた張四胖子も、信じられない面持だったが~「楊先生に武術の指導もしてもらおう」ということになった。

それから二年ほど経った頃、楊露禅は故郷に近況を知らせる手紙を書いた。
ある日、故郷の者だと楊露禅を訪ねて来た者がいた。誰が来たのか~と、いぶかりながら楊露禅が出ていくと、見知らぬ三十過ぎの男が、「人に頼まれて届け物を持ってきた」と跪いた~と思いきや、右拳で楊露禅の下腹を攻撃してきた~“嘭ban”という音と共に、楊露禅が用いた海底針によって道路の向こう側へと飛ばされ~男は、起き上がりざまに、「三年後に、又、来るからな!」という言葉を残して駆け去った。

部屋に戻った楊露禅は、以降迷惑をかけることが起こるかもしれないと、自分が北京に逃げてきた原因を張四胖子に打ち明けた。

楊露禅の功夫を惜しんだ張四胖子は、四爺(端群王)を紹介することを考えた。
当時、大きな権力を持っていた四爺の所で教拳をしたら、傷害事件は解決する~武術好きだった四爺府の総管王藍亭に話を持っていくと、即座に、強く四爺へと進言~四爺は、楊露禅を王爺府の武術教官として重用した。

四爺の図らいにより、楊露禅は旗営(軍隊)の武術教官となった。
当時、楊露禅の拳は“綿拳”と称されていて“太極拳”とは呼ばれていなかった。楊露禅の拳は、旗人の近八旗のみに教えられていた。旗営は二班に分かれていて、一つは、摔跤などを身に付けた身体強壮な東八営。いま一つは、身体能力が劣っていた西八営。又、王公貴族も多く習いに来ていたが、彼らは、キツイ訓練を嫌っていたので、身につかなかった。

そんな中、将軍の岳柱臣と時紹南が太極拳の真諦を掌握、楊露禅の弟子となった。
後に、凌山、全佑、万春善も門下となったが、当時の観念的な原因で、楊露禅の息子班侯の門下となっている。
by takeichi-3 | 2014-10-18 23:55 | 偉人たち | Comments(0)