北京で太極拳

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全佑(呉式)サイトによる楊露禅。。。

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中国の呉式系サイトに出ていた、略式系譜。。。
楊露禅が北京にやって来た経緯、昨日とは異る~一般に伝えられているものと同じ内容。

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全佑(呉式)⇒1834~1902年(満族:北京大興生まれ)
歴代武功の家庭に育ち、青年期には北京旗営で軍官見習をしていた。

当時の武術教官は楊露禅で、太極拳を教えていた。
多くの軍官たちが楊露禅に学んでいたが、苦練を厭わずに精進を積んで楊露禅に可愛がられ真傳を授けられたのは、万春(発劲に長ける)、凌山(剛劲に長ける)、全佑(柔化に長ける)の三人。

本来なら、師の楊露禅に弟子入りするのが当然なのだが、皇帝の血を引く時紹南と将軍岳柱臣が既に弟子となっていて~身分の高い者と一般の軍官が兄弟弟子として名を連ねることを避ける為、次男である楊班侯に弟子入りさせた⇒この三人は、楊露禅の拳以外に楊班侯及び武氏太極拳の精髄を学んでいる。

楊露禅は、二十年以上をかけて陳家溝で太極真傳を取得。
故郷に戻ってから、同郷の武禹襄(武式太極拳の始祖)にこれを伝えた。
武禹襄は、直接、陳家溝太極拳を学びたいと、陳長興を尋ねたが拒絶され~当時河南舞陽県の知事を務めていた兄の武澄清が、もめ事から救ったことがある趙堡村の太極拳名師陳清平の元で拳を学ぶことになり~後に武氏太極拳を創った。その拳は、婿の李亦畬と楊班侯に伝わった。

武禹襄のもう一人の兄、武汝清は進士~北京で宮廷に仕えていたので、多くの王公大臣と交流があった。
ある時、時貝勒(即王子)が子供の武術教師を捜していた。これを知った武汝清は楊露禅を推薦~これより、時紹南に太極拳を教えることになる。加えて、武状出身の岳柱臣将軍にも。

岳柱臣将軍が戦死~楊露禅は、時紹南に対してより熱心に太極拳を伝え~時紹南もこれに応えたが、不幸にも四十一歳で天然痘に罹って死亡。傷心&老いによる体力の衰えを感じた楊露禅は故郷の永年へと帰って行き~全佑は旗営を離脱して、北京水磨胡同に武館を開く⇒旗営を離れる前、時貝勒が、班侯と全佑の推手を要求~班侯の攻めは、悉く全佑に化解され~全佑を倒すことができなかったという。

当時、全佑が教えていた拳架は、現在の呉氏快架と称されている拳~有快有慢、有発勁、有跳躍~霊有四相⇒剛柔相済、頓挫相間、快慢相合、前後相連。

呉氏快架=本来は楊露禅拳架⇒陳長興から学んだ太極拳&それ以前に学んだ拳の知識を組合せて、自らの太極拳功架を創った。

全三爺(通称)に太極拳を学ぶ者は徐々に増えていき、郭松亭、王茂齋、夏公甫、常遠亭、夏貴勛、劉彩臣などが弟子入り~全佑の功夫は益々高くなっていった。


≪呉式快拳≫


by takeichi-3 | 2014-10-19 23:56 | 偉人たち | Comments(0)