北京で太極拳

takeichi3.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

李経梧。。。呉、陳、楊、孫&心意六合拳

f0007580_23203333.gif
ポンポンと、弟子たちを跳ね飛ばしている動画が多い「李経梧」
北京で百貨店を営んでいて、老師たちに経済的援助も出来たことから~恵まれた環境で拳研究に没頭が出来たようです。



李経梧:(動画の翻訳ではありません)
1912年5月山東省掖県(莱州)生まれ。住環境が寒かったせいで、風湿症(リウマチ)に罹り~医者も手の施しようがなかったが、武術に出会って体質を改善した。

1927年より、孫楓秋&哈爾濱の劉子源より秘宗拳を学ぶ。
30年代の初めに北京に~趙鉄庵(呉)、陳発科(陳)、楊禹廷(呉)より太極拳を~胡耀貞より心意六合拳を~1941年、北平太庙(労働人民文化宮)太極拳研究会理事に。

建国後は、積極的に太極拳の普及に努め、24式&88式の編纂に協力。
50年代に、河北省の北戴河に移り、秘宗拳,陳式、呉式、心意六合拳を融合した経梧太極拳を創った。

27歳の時に弟子入りした趙鉄庵は呉式太極拳の伝承者⇒王茂斋と呉鑑泉より指導を受けていた。
その後、太庙で知り合った楊禹廷より、更に細かい架子&推手の指導を受け~その武徳にも惹かれて門下に⇒李経梧の技術を認めていた楊禹廷は、弟子というよりも研磨しあう同志として受け入れた。

王茂斋の息子「王子英」。。。
北京では一、二を争う推手の名手にも学ぶ。
王子英の性格は激しく、推手の時には手加減せず相手を飛ばしていたので、一般の腕前では相手が務まらなかった。又、父親より受け継いだ商いを営み~教拳をせずとも暮らしていける環境だったので生徒は少なく、専門家以外からの認知度は低かった。

40年代になって、陳式太極拳十七代伝承者「陳発科」が北京に伝拳の為にやって来ると、敬慕していた陳式拳の「纏絲劲」を見極めたく~陳発科を訪れ、陳式太極拳と推手を学ぶ。
そして、「胡耀貞」からは、心意六合拳を学ぶ。

陳発科は朴実な性格。河南訛りが酷くて、話していることが聞き取りづらかった。
技術は優れていたが、説明よりも実践~その手は重く、発力は強くて一般人には耐えられなかった⇒相手が出来た弟子は3~5人位。李経梧と孫楓秋もその中にいる。李経梧の体格⇒身長1m75cmの山東大漢で強壮~だったが、陳発科との推手では、二、三圏くらいで飛ばされていた。

★陳発科は、陳式太極拳中興の祖。
陳家溝以外では、認識と理解が乏しかった陳式太極拳を北京で伝拳することで発展へと導いた。
※陳発科物語⇒ http://takeichi3.exblog.jp/22156909/

50年代、国家体育協会の依頼により、楊式太極拳を主体とした制定拳、24式と88式太極拳の編纂に加わり~その際に、楊式太極拳の手法と劲路を研究~60年代になって、友人たちとの交流を通じて孫式太極拳の手法と劲路を研究。
by takeichi-3 | 2016-01-10 23:43 | 偉人たち | Comments(0)