北京で太極拳

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大悲陀羅尼拳(大悲拳)。。。奇雲和尚

弟子が語った、楊禹廷老師(呉式)の思い出~の中に出てきた「大悲拳」
かなり、養生効果のありそうな動きだなぁ~と。。。



大悲拳は北京で伝承が開始され広まっていった拳。
太極拳、八卦形意拳の身法と手法、内外合一,剛柔相済、用意不用力、動中求静、虚実分明、虚領頂劲、松腰收臀、沈肩墜肘、呼吸と動作が結合。

動作は緩慢、穏重,速度は均一、行雲流水、打八方,四正四隅,主要な手法⇒劈、撩、挑、挿、挂、托、穿、搭、搓、戳、削等。

元々は、仏門に口伝身授されていた大悲拳。文字として記録されていない。
仏門密宗の内功拳法。正式名称は「大悲心陀羅尼拳」⇒略して「大悲拳」
その起源は、1500年前の唐朝年間。言い伝えによると、始祖は河南少林寺十三棍僧の一人「昙宗和尚」。至宝と見做されていたので僧でない者には無縁~世に知られることがなかった。

1937年に奇雲和尚(俗名史正綱)が口述、李瑞呈(大興県国術間館長)が執筆、奇雲和尚の弟子雲庵和尚が演練した写真を載せた《大悲陀羅尼图説》が、初めて出現した文字記述。1963年に北京中山公園で教拳を開始。

1904年に河北省保定で生まれた奇雲和尚。
父親は、江蘇省徐州市鉄路局の一般工員。徐州は山東、河南、江蘇、安徽の四省と交わる地域。南北の武林名師が集まる場所でもあった。

幼い頃から武術を愛していた史正剛(俗名)は、南北の弾腿、査拳、花拳、炮拳、洪拳、少林拳、各種の長短軟硬兵器を学んだ。

1924年、北京德勝門外の小学校で教師となり、彼を心から慕う娘と結婚して一女を得た。
子供が七歳の時に妻は病気で他界。史正剛は幼女を連れて故郷の保定に帰り、跡継ぎのいない親戚の家に預けた。その後、一人北京に戻り~宣武門外の法源寺で出家して僧「奇雲」となった。

1950年以降、国内の殆どの僧侶が還俗を強要され、奇雲は農業社の社員となった。
1963年、北京市武術協会の要請を受けて、中山公園で密宗大悲拳を教え始める。


《思い出話》
1961年5月から中山公園十字亭で、楊禹廷老師から呉式太極拳を学び始めた。
当時、老師のところを訪れる生徒は多く、十字亭内と亭外の空き地には生徒が溢れていた。当時の月謝は二元。三カ月経った頃、「お前は学生で、収入が無いのだから学費はいらない」と、既に納めた学費も返してくれた。

楊老師は若者たちを非常に愛護していた。
圧腿(ストレッチ)、踢腿(足上げ)、練腰に開腰(股)なども自ら指導してくれた。練習中、私がバランスを崩し傍にいた楊老師をまきこんでしまった。老師は石にぶつかって怪我を負い、指導が出来なくなってしまい~「由史師爺(有名な奇雲大師=楊老師の大親友)が開腰を教える」と。。。

楊老師お気に入りの兄弟子(馬有清、李秉慈)たちは、奇雲大師から大悲陀羅尼拳(大悲拳)を学んでいた。後に、私たちも楊老師の同意の下、学ぶことが出来た。その他、楊老師は李秉慈先生には「四門刀」「夜叉棍」「降魔剣」を馬有清先生には「純陽剣」を私たちに教えるよう命じた。

人柄が良かった楊老師の友人は多く~奇雲大師&八卦形意の駱興武老師とは、いつも練習場所でお茶を飲みながら話をしていた。

六十年代初夏のある日、楊老師の友人呉图南老老師も来ていた。
多くの学生たちが呉老師の拳芸を見たがり、馬有清先生が相手をすることになって~馬先生は、よく、駱老師を始めとした形意拳名家たちから学んでいたので功夫は高く、大会では三年連続優勝していた~形意拳の「虎捕」~両手で呉老師の胸を捕らえようとしたが、簡単に二丈(6.666…m)も飛ばされてしまった。「呉图南は、各地で多くの高手と手合わせしていて~功夫深厚…」と、楊老師。。。
by takeichi-3 | 2016-04-03 23:53 | 偉人たち | Comments(0)