体験功夫。。。陳家溝~三人目の老師は「王西安」
その姓を見ても分かるように(陳ではない)、他から陳家溝へとやってきた家族。
拳を習いたくとも彼の姿が見えるやいなや門を閉ざされたり~年下の子供に負けたり。。。
1958年、村を離れて各地で武術指導をしていた陳照丕が陳家溝に戻って、武術学校を開設。
陳姓でなくとも、何歳でも、男女の区別もなく受け入れた。王西安は水を得た魚のように技術を吸収~実戦的な太極拳に重点をおいた指導をしている。
★補足★
「陳照丕(1893~1971)」⇒陳氏太極拳第十代伝人。叔父陳発科より学ぶ
1941年、イナゴが大量発生して穀物に多大な被害を与え、その翌年には河南省一帯の大旱魃~等で村民たちの暮らしは逼迫。飢えを凌ぐために草の根や木の皮を食べたり~青壮年たちは村を離れて出稼ぎに行ってしまい、練武者が激減していった。その現状を目の当たりにして、陳家拳の失伝を恐れて帰郷。
当時の弟子~王西安、朱天才、陳小旺、陳正雷、陳德旺、王天宝など三十人余りが集まった。
1966年。文化大革命時~太極拳は大毒草と称され、陳家の先祖を祀る堂や位牌は破壊された。
74歳になっていた陳照奎は迫害され、共に練拳した者たちは「搞小集団」と批判されて、自由に練習が出来なくなっていた⇒「夜聚明散=夜になると集まって練習、朝には解散」
1967年。陳照奎には四つの罪が問われていた。
第一は地主。第二は国術教官。第三は国民政府で教拳していた時に国民党に加入。第四は旧資産階級による反動組織に加入。
幾度かの批判に晒され、耐えきれなくなり~1967年初春に井戸に飛び込んで自殺を図る。
水が浅かったために命を落とすことはなく救出されたが、井戸の底に設置されていた竹筒が足に刺さり怪我を負った。
批判対象者の陳照奎を敢えて治療しようとする医者はおらず、陳正雷と陳春雷は家に連れ帰って塩水で傷口を洗ったり、酒で消毒したりしたが~結果は芳しくなく、片足は使えなくなってしまった。
1969年。人民日報に、「体操、球技、ランニング、登山、水泳、太極拳等の運動を行おう」という毛沢東のスローガンが掲載された。
この記事を読むや否や、新聞を握りしめて陳正雷を探し出し~
「小雷、毛主席が太極拳をやってもいいと~練拳は法を犯すことにはならない」
と、村の青少年たちに練拳を禁じる必要がなくなったことを喜び、資料を整理~「理論十三篇」をまとめた。
1972年。12月30日、80歳で逝去。
★陳発科⇒
https://takeichi3.exblog.jp/22156909/