北京で太極拳

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楊式:崔毅士。。。燕京泰斗

f0007580_0393557.gif楊式太極拳第五代伝承者≪張勇涛≫による、
母方の祖父≪崔毅士≫の思い出。

楊澄甫の十大弟子の一人で、一番の松沈者。
発松沈劲をよくする推手。

1950年代に「永年太極拳」を設立。
長期にわたって、中山公園で楊式太極拳を教えていた。。

当時の中山公園では、呉式太極拳の名師楊禹廷、大成拳師王向斉等といった北京武術界の名家の姿が見られた。名家老師たちは互いに尊敬しあい、助け合い~競争したりすることは無かった。

祖父が先に教拳を終えた時には、楊老師の所へ行き挨拶~楊老師も又、同じように祖父に挨拶に来ていた。

一つの公園の中で、二人の太極拳大師が比較的近い場所で教拳しているのだから、太極拳を学んでいる人の中には、軽く一つの太極拳を覚えたら~別の太極拳も学びたいという者も現れたが、、、
祖父は、「一つの拳をしっかり丁寧に極めなさい。楊老師の功夫は非常に優れている」と言い、
楊老師は、「先に崔老師の楊式を極め、それが完成した後に、改めて訪ねて来なさい」と、、、

当時、河北省から北京にやってきた呉文翰が祖父に教えを請いに来た時、彼が開合架太極拳(当時の武式太極拳の名称)を学んでいたと聞いて、、、
「長きにわたって開合架を学んでいたのに、改拳するということは、それを捨ててしまうような~非常に勿体ないこと。開合架なら私にも指導できる」

もちろん、呉文翰は喜んだ。
祖父は、若い頃には刘瀛洲に三皇炮錘を学び、後に、李香遠に武式太極拳を学んでいる。
「武術界、人外有人、天外有天、不要総説自己的好、更不要貶低别人」と口にしていた。


忘れられない、この二人の先輩たちの出来事がある。。。

1960年の初めだったか、、、
北京武術界が東長安街体育場で初めての太極拳推手大会を開催。
この時の組み合わせは、同門派同士が手を合わせるというわけではなく、異なる太極拳門派間で行われた。祖父や楊老師等~武術家たちが来賓として招かれていた。

試合中に、呉式太極拳の選手が散手の手法を使って攻撃した。相手の楊式太極拳太极拳選手は、やはり散手の手法で反撃~試合を見守っていた双方の師兄弟たちは、互いに相手の規則違反を責めあった。双方ともに大人数~それぞれが口々に言い立てているうちに、手足を動かしそうな気配に。。。

この時、祖父と楊老師が共に立ち上がり、自身の弟子たちに向かって大声を発して制止。
そして、互いに自分の弟子が悪かったからと謝りあって、その場をおさめた。


文革中、「資本家」「反動学術権威」として批判の対称になっていた祖父。
私の母でさえも批判されていた。功夫を身につけていたとしても、あのような状況下では反抗のしようが無かった。

ある日、工場の労働から戻ると、紅衛兵に後ろ手に縛られ跪いた祖父と母の姿があった。
彼らを守りたくて、そっとその身辺に近寄ると~祖父が「大丈夫だ。功夫で、こんな縄なんて簡単にはずせる」と言うと~縄を解いてしまった。驚いた母が、「駄目。そんなことしたら、皆、殺されてしまう」と~幸いなことに紅衛兵が気付くことは無かったが、この批判は、後に幾度も繰り返された。

文化大革命の期間に複数回受けた批判。
それによって、祖父の身体は痛めつけられ、家は没収され、教拳も許されなかった。その影響で、祖父の心精は欝々として~食道癌を発症。

臨終前、、、
以前、祖父の機嫌がいい時、私に腹を触れと言って~触ると、その腹の中には充満した弾力のある一つの球があって~その球は、祖父の腹を弄っている私の手の動きに磁石のように吸い付いて離れない~「この球を弾くと、お前は軽く飛んでしまう」と言っていたのに、、、

「丹田を触っても球が無い~遠からず、死ぬのだろう」
その言葉通り、間もなく息を引き取った。
by takeichi-3 | 2017-03-29 23:59 | 偉人たち | Comments(0)