今年から法定休日となった端午節に寄せられた文章です。
伝統文化から遠ざかり始めている現代人は、この三日間をどのように認識しているのでしょうか。ここ最近では、“端午節=粽子節”となっているのも確かです。
私の故郷では毎年端午節になると水辺でヨモギ、菖蒲を採ってきて、ヨモギは魔除けとして門の上に飾り、菖蒲で醤油を作りました。
水郷地帯では龍船競争が催されます。
これには古典文学《白蛇传》の中に、
人間と恋に落ちてその素性を隠したまま結婚した雌蛇が、金山寺の僧に見破られ、「端午節に魔除けの雄黄酒を飲ませれば、直ぐに正体を現すだろう。」といった話しが残っています。
(詳しい物語は、
http://tuziblack.hp.infoseek.co.jp/page170.html)
そして、もっとも有名なのが、
憂国の詩人・・・屈原
魚腹に葬られる。
屈原は楚の王族の一人で、楚の懐王に仕えて左徒(補佐官)に任じられていた。屈原は学識豊かで政治的見識に富み、挨拶、対応の仕方など、政治家としての素養を充分に積んでいた。宮廷内では、王のよき相談役として国事を裁き、外交面でも賓客の接待、侯との対応に手腕を発揮。懐王の信任はたいへん厚かった。
しかし、重臣たちの中には屈原を嫉むものがいた。
その一人、上官大夫は、ひそかに屈原を失脚させるチャンスを狙っていた。
ある時、屈原は懐王から法令の草案作成を命じられた。
草案が出来上がりかけた時、上官大夫が押しかけて、それを未完成のまま強引に懐王に提出させようとしたが、屈原が拒否したので、上官大夫は懐王に讒言。
「法令を作成するとき、王はいつも屈原にお命じになる。これは周知のことであります。ところが、あの男ときたら、法令が交付される度に、これは自分が作ったのだ、自分がいなければ王は何一つ満足に事を行えないと言いふらしています」
懐王は顔色を変え、以降、屈原を近ずけようとしなくなった。
屈原は歯軋りする思いであった。
懐王は中傷や媚びへつらいを真に受け、臣下の進言の当否を見抜けないでいる。腹黒い臣下が国事を独占して正当が受け入れられない。屈原は鬱々とした悲しみの日々を送る。
この気持ちは、「離騒」という長篇の詩となって吐露されている。
懐王は最後まで過ちに気付かなかった。国の前途を憂い、国王の身を案じた屈原だったが、奸臣たちの計略にかかって江南に追放されてしまう。
乱れた髪で、入江のほとりを吟行する屈原。
顔色は憔悴し、体は枯れ木のように痩せ衰える。漁師が屈原を見かけて声をかけた。
「あなたは屈原さまではありませんか。どうして、こんなところにおられるのですか」
「世の中が濁っているのに、私一人澄んでいる。誰もが皆酔っているのに、私一人醒めている。だから放逐されたのだ。」
「物事に拘泥せず世の推移に身を任せる。これが聖人の生き方だと聞いております。世の中が濁っているなら、何故その流れに身を任せないのですか。すべての人間が皆酔っているなら、何故ドブロクでも飲んで、ご自身も酔わないのですか。胸中に珠玉を懐きながら、何故、ご自分から放逐されるような真似をなさったのですか」
「顔を洗い体を拭いた後は、冠の汚れをはたき、衣服も埃をはたいてに身つけると言うではないか。潔白の身を垢で汚すわけにはいかない。そんな真似をするくらいなら、いっそ江水の流れに身を投じて魚の餌食になった方がましだ。世俗の汚れに身を投じるなどまっぴらだ」
かくて、屈原は石を懐に入れると、泪羅に身を投じて死んだ。