北京で太極拳

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2013年 07月 17日 ( 1 )

呉彬。。。北京武術院院長

ジェット・リーを育てたことで有名な、今年75歳になる北京武術院院長でもあり名コーチの≪呉彬≫



什刹海の武術ショーに登場するパンダの表演~

パンダたちがこなした棍の名称は?
パンダ棍~パンダがやってるんだから。套路には色々な棍が組み合わされている~
斉眉棍、少林棍、六合棍。

呉彬が育てた武術スター、、、李連傑、ドニー・イェン、呉京。

李連傑とは、1971年、彼が小学二年の時から。
張老師(体育)から電話があって~「イイ顔をした学生がいるんだけど」って。。。
顔がイイって?先ず、顔から判断する?
そう。武術を習うんだから。
体格じゃなくて?
精気神があるって、張老師が褒めてたから。
何人の中から李連傑を選んだんですか?
千人以上。
広範囲から選んだんですね。
什刹海周辺の学校全てを回った。
精気神以外、李連傑の身体は武術に向いていたんですか?
彼の武術は優れていた。試験もしたし。
どんな試験?
立たせて、コーチたちが色々な指示を出して動きをチェック。それから、しゃがませた⇒見本あり⇒踵が上がらず、きちんと座っている。膝もOK,股関節もOK~百人のうち、少なくとも五十人はキチンと座れなかった。

司会者がお試し⇒ま、いいほうだけど、足首が堅い。もう少し前よりに~これならイイ(関節基準)、李連傑と同じくらい。それから、腕を上げて肩関節をチェック~それから、走る。速度と協調性、爆発力(ジャンプ)~李連傑は2m以上飛んだ。チェックするのは、関節の状態と爆発力、協調性、柔軟性。それらから子供を選んだ。

李連傑の母親は、彼が武術を始めることに反対していたそうですが、、、
しばらく経ってから練習を始めた。
しばらくは、習わなかった?
習うも習わないも、来なければ教えようもない。母親が反対していた理由は~彼が二歳の時に父親が亡くなっていて~父親はラジオ局の技師だった。李連傑には二人の姉と二人の兄がいた。彼は老小(末っ子)。当時八歳になっていた。父親がいなくて、五人の子供を抱えているんだから、生活はラクではなかっただろう。毎日練習をして帰ってくるんだから、お腹が空いて~沢山食べる。栄養のある物を食べなければならないし~母親は困ったことだろう。夜、練習疲れで、寝ようにも眠れず寝汗をかいて~体力も消耗してくる。そんなこともあって、練習を止めさせた。

私たちも仕事でもあるし~才能のある子供に教えられるよう~週5だった練習回数を周3にするからと提案したが、母親は承知しない。で、競技大会に参加するなら、什刹海で選手たちと一緒に食事をさせるという条件で、ようやく同意が得られた。1972年、初参加の全国大会で、拳術、刀術、対練で一等賞を獲得。


ドニー・イェンは???
彼は、1983年にやって来た。
1980年に北京武術隊がアメリカを訪問した時、彼が住んでいるボストンにも行った。彼の母親はボストンで武術館を開いていた。そこで、北京武術隊は彼らに深い印象を与えた。

それから~1982年に映画少林寺が上映されるや否や、彼の母親はドニーと妹を連れて北京武術隊にやって来た。その時、「兄か妹のいずれか一人だけを北京に残しなさい」と伝えた。

どうして妹は選ばれなかったのでしょう?
妹は基本が出来ていなかったので、連れ帰るように言った。残されたドニーもラクではなかった。
中国の武術とアメリカ華人が学ぶ武術に違いがあったから~彼らは古い伝統武術⇒詠春拳など南方の拳を練習していた。ドニーによると、南方拳以外に空手も習っていたらしいが、中国国内で学ばなければならないのは国家体委が制定した競技套路。転型など、高度な技を練習しなければならなくなった。

柔軟性がなくて硬かったので、初めのうちは女子チームに入れた。
柔らかくなったら、男子チームに入れると~今の彼の動きの基礎は、あの頃に培われた。


呉京について。。。
李連傑出演映画の監督≪張鑫炎≫が、後になって、役者を捜しにやって来た。
その時、呉京に目を止めたので~呉京に話したら、出演することを希望した。
当時、呉京は十五歳。呉京の性格などを考慮して書き上げられた台本が完成するまでに要した時間は二年。呉京は十七歳に。北京隊の中で一番背丈が高くなっていて~「どうしてこんなに背が高く~」と、仕方なく台本を書き換えた。
by takeichi-3 | 2013-07-17 23:41 | 偉人たち | Comments(0)