北京で太極拳

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カテゴリ:偉人たち( 108 )

洪熙官。。。

色々な武術家の故事を探していたら~武林というサイト発見。
武術系の色々な情報を提供しています。。。(^^)v

で、、、
「洪熙官」という名前を見て~You-Tubeで動画を探したら~ドニー・イェンが。。。




≪洪熙官≫
広東省花県出身の少林弟子。洪拳の創始者。
元明の軍人で反清派の蔡九儀に少林拳を学び~その紹介で南少林寺でも学拳した洪熙官。
1673年、反清分子として清兵に追われる中、大佛寺に逃げ込んで少林絶技を学ぶ。
同年末に勃発した三藩之乱。それに乗じて仏山を中心に組織された地下武装グループに参加して武功を発揮。その功夫の高さは世に轟き~百家武功の精華に少林武功を融合させた洪拳の名も広まった。




洪拳の由来については、、、
・元明期、陕西地方の拳術紅拳にその他拳の技術を加えて演化。三百年以上の歴史がある。
・清代の南方民間秘密結社三合会(洪門)が学拳していた少林拳。
・南方の洪拳は五形拳として知られている。北方の洪拳は十(二)形拳(心意六合拳)として伝出。
by takeichi-3 | 2017-03-26 23:49 | 偉人たち | Comments(0)

武林高手。。。

f0007580_2356446.gif「絶頂高手隠蔵普通工人之中遇流氓挑戦、結果把対方打得心服口服」
というタイトルが気になって~見てしまった動画。
※今年に入ってから、中国動画サイトで多くUPされている場面。



元は、2013年に放映されたテレビドラマ「葉問」
五大実力カンフー俳優(于荣光、元華、梁小龍、梁家仁、于海)が出演していると話題に。。。



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★清末の十代高手を要領よく紹介しています。。。



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★金庸武侠小説~詳しくはないのですが、登場する十大高手~神秘的武功の使い手多数。
修行を重ねれば、いつか、手に入れられるのでしょうか。。。


by takeichi-3 | 2017-03-20 23:57 | 偉人たち | Comments(0)

五枚師太。。。

少林五老の一人として名を知られている《五枚師太》
小説《万年青》の中、方世玉と戦って、その命を奪ったと記されていたりするのですが、、、
その生い立ちなどを調べても、生年、出身地、家族関係、没年などの資料が無くて、、、

★1955年に制作された映画の中で、五枚師太(二番手で表演している女性)の武功が覗えます。



五枚師太以外の少林五老は、至善和尚、 白眉道長、 馮道德、 苗显。
彼らはいずれも真祖とされていて、功夫は一流。
白眉(武当派)と馮道德は自身で門派を創り~五枚師太は武当へ、至善と苗显は少林を堅持。

清朝開国以降、少林派拳家は南に移動。その多くが広東、福建等に流れた。福建泉州東岳山少林寺は反清復明の活動基地となっていた。《少林拳術秘訣》の記載によると、康熙年間、巨頭鉄斋和尚は、秘密裏に潮州に潜入して多くの弟子を集めて授拳~広東マフィアを生み出すきっかけとなった。

広州詠春拳名家であると同時に《詠春拳》の作者でもある李志河によると、南少林長老五枚師太は、清廷による火焼少林寺後、広州河南龍導尾(龍鳳街)の寧隠庵に住んでいた。反清復明の志を持っていた五枚師太は、新しい功夫を研究し続けた。庵の周辺は荒野で、蛇や鶴が常に出没~ある日、散歩に出た五枚師太は、鶴と蛇が格闘しているのに遭遇~新しい武功が閃いた~手腕を巻き付かせるように快速変換する「手劲」が主となる功夫~それを女性向けに改進~上肢の動作が主で、中心線に重点をおいての攻防。

その拳は、後に巖二の娘巖詠春に伝えられて詠春拳と呼ばれるようになった。




★小説《万年青》では、五枚師太は方世玉と戦って、その命を奪ったと記されている。
★方世玉⇒ http://takeichi3.exblog.jp/20147265
by takeichi-3 | 2016-10-14 23:58 | 偉人たち | Comments(0)

蒋介石のボディーガード。。。長江大侠呂紫剣

幾度か動画を見て~名前も知っていた《呂紫剣》




この動画を見たら、その経歴が知りたくなってしまいました。。。(*^_^*)

天津の《霍元甲》、関東の《杜心武》と並ぶ、清末民初武林の三大侠客。
2009年に世界最高齢者となり、2012年118歳で逝去。

1900年、七歳の時に母親より習武。
呑み込みが早かったので、家人は、名師「李国操」より指導を受けられるようにする。
痴迷武学な呂紫剣は、翌年には峨眉山の神掌「李長叶」に弟子入り。合計三回、峨眉山に赴き~八年学芸(武)。李長叶の「游身八卦連環掌」をマスター。李長叶以外、武当山紫霄道長「徐本善」も、呂紫剣にとっては重要な師父。李長叶師父に八卦掌を学んでいる期間にも武当山に行っている。習武20年~全てを伝承した。

1920年、27歳の時に南京雨花台で行われた武術大会(実戦)で優勝。
是れより、師に学ぶを終えて~武林世界で自立。
呂紫剣の噂を耳にした蒋介石は、彼をボディーガードとして採用すると同時に少将の位に処し、国術主任教官の職を与えた。

1945年、数々の武術家を倒して中国人を侮辱する言葉を発してしていたアメリカMarshall将軍のボディーガードと重慶で戦い、八卦掌によって打ち負かした。

武術ばかりでなく医術にも優れていて、人々を治療した。

★一方で、以上の逸話の中には虚偽の部分があると分析している文章も流出しています。


★中国最後のボディーガードと呼ばれている《李堯臣》。。。幼年期には太極拳を学んでいます。


by takeichi-3 | 2016-10-11 23:55 | 偉人たち | Comments(0)

陳思坦。。。

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太極拳王子と称されている《陳思坦》。。。
2004年より、妻と共にアメリカに渡り~
ニューヨークで「美国太極拳健身気功センター」を主宰しているそうです。


★指導を受けている子供たちの表演。。。






福州生まれの陳思坦。
祖父陳修如は福州武術館の副館長。六歳の時、祖父より羅漢拳を学び~その表演は近隣の人から絶賛されていた。

1977年、十歳の時に全国十大武術名教練の一人曾乃梁の収徒となり、正式に武の道を歩むことになる。二年目に参加した全国武術大会で二位となり頭角を現すが、その後、成績は安定せず選抜選手になれずにいたが、二十一歳になって再び注目され~1988年、北京で行われた中日太極拳大会で初めて優勝したのをきっかけに、“埋在沙里的金子=砂に埋もれていた金”は、ついに輝きを放ち人々の目を奪うようになった。

1990年、初めて武術が正式種目として採用された第十一回アジア大会の男子太極拳で優勝~等、計32枚の金メダルを獲得。三十歳で選手引退。
by takeichi-3 | 2016-09-17 23:57 | 偉人たち | Comments(0)

段智良(気功世家)。。。《無極養生功》

三十年前、太極拳を始めた頃、同時にその存在を知った当時の気功の神秘的なイメージ通りの動画。
登場するのは、段智良老師(1908年-1916年)
民間中医研究所主任医師兼骨科主任、気功点穴科主任、高級気功師。



来歴~本人が語った以外の資料が極端に少ないのですが。。。
清王朝武衛御医の家に生まれて、6歳の時より先祖伝来の《無極混沌功》を学ぶ。
習文修武を尊ぶようにという家訓もあり、専門の中医以外に武術も修め~数十年に及び勤学苦練の後、気功、中医、武術~全ての造詣を深め、健身、養生治病の方法を感悟した。

練功に一番適した時間は、夜十一時から  午前一時の間。
「子時得気」「馬時練血」「卯酉筋骨」。。。という決まりがある。


★《無極養生功》。。。拉筋抜骨、纏丝~内劲を養える功です。


by takeichi-3 | 2016-09-12 23:58 | 偉人たち | Comments(0)

木人桩。。。葉問

喉の癌に冒された身体~頑強な意思で病魔と闘いながら、詠春拳の未来の為に、二人の息子の力を借りて死の三日前に撮影されたという映像。当初は、八斬刀、六点半棍なども撮影する予定だったが、体力的に無理だと判断した息子たちの反対に遭い断念したそうです。



葉問の元にいた頃は、木人桩を習う機会がなかったブルース・リー。
ハリウッドで名を為した後~香港に戻ってきた時、詠春木人桩法の伝授&アメリカに帰った時の自主練用に撮影を~一軒の家を進呈するからと葉問に申し出たが拒絶される。

非常に良い条件だったので、周囲にいた弟子たちは残念がったが~葉問は、、、
「心から功夫を願い探求する者には全力で伝授するが、功夫を商売道具として扱う者には与えない」

「徒弟が良い師父を見つけるのは難しい。だが、師父が良い弟子を見出すのは更に困難だ」
葉問には郭富という名の徒弟がいた⇒ http://takeichi3.exblog.jp/25216089/
五年教え~葉問は、努力家のこの弟子を気に入っていたのだが、郭富は失業してしまい、止む無く故郷へと帰って行った。その後の二年余り、自ら数十里の道を徒歩で郭富の元へ赴いて詠春拳を伝授し続け~全ての拳譜を記録させた。

この動画は、いずれの弟子たちにも等しく自分の技術を残そう~という考えで撮影された。
という話を思い出していました。。。
by takeichi-3 | 2016-05-31 23:59 | 偉人たち | Comments(0)

大刀王五(清朝末年の武師)。。。

霍元甲とも親しいかったという大刀王五(清朝末年の武師)
※下記説明の順序、動画通りではない部分もあります。



1898年、戊戌変法(政変)を計画して、北京へと来ていた譚嗣同の衣食住の面倒を見ていた大刀王五~クーデター計画が西太后に発覚、首謀者として捕らえられて斬首された譚嗣同を始めとした戊戌六君子を救い出せなかった。。。

譚嗣同が獄中の壁に記した遺書の中に「両崑崙」という言葉の中に隠されている、自身が成し遂げられなかった改革の実現を託した二人の人物⇒康有為と大刀王五~一人は北京を離れて、一人は北京に残っていた。

★戊戌の政変
光緒帝のもと、康有為ら革新的官僚が近代化を推し進めようと起こった一種のクーデター。
協力を持ち掛けた袁世凱により、保守派西太后に密告され~光緒帝は逮捕幽閉。首謀者として譚嗣同は処刑。康有為、梁啓超は逃亡~日本に亡命した。


王正誼(1844年—1900年)、字子斌⇒俗称「大刀王五」。
河北滄州で生まれた、北京で名の知られた武林名侠。義を重んじる侠客としての生涯。
清末の武林十大高手のトップ⇒董海川、燕子李三、霍元甲、黄飛鴻等が名を連ねている。

極貧の農村に生まれた王五。三歳の時に父親を病で失い。小さい頃から雑役をこなしながら母と命をつないでいた。十二歳の時に焼餅店の見習いとなり~滄州で有名な錨師(ガードマン)双刀李鳳岡を師として学芸。その後十数年、ガードマンを生業としながら、李鳳岡の武芸を真伝~習武の少年は、強壮な硬骨漢となっていた⇒李鳳岡の第五番目に列する弟子だったので「小王五」と呼ばれていた。

以前の武術界、弟子は師匠から十八般兵器等も学んだ。それぞれの師匠には、各々の得意があった~李鳳岡が得意としたのは六合拳~では、大刀王五の大刀は何故?

三十歳の時、北京で、第二の師匠となる山西董に師事して単刀を学んだ。
長くガードマンを務めていた王五の腕力は抜きんでていて、他よりも大きな刀を作らせた。言い伝えによると、50kgあったという稀有な武器~その効果は関雲長の大刀に引けを取らない威力があったという。この大刀のことは北京以外の地域にも伝わり~世間から「大刀王五」と呼ばれるようになった。

大刀王五を題材にした書籍、映画等は数多くある。
写真の右側の人物が大刀王五~唯一の写真。写真の背景に「源順錨局」の額があって、王子斌、王子亮という名前が見られるが、王子斌=王五。まだ若い姿から察するに、錨局を開設して間もない頃に写したものではないかと。

友人の援助を得て1870年に北京に錨局を設立。
需要が多かった時期~徳義高尚だった彼の商いの評判は良く、短期間の間に繁盛するようになった。

当時の流行り歌。
「走錨者、英雄也、白龍馬、梨花槍、走遍天下是故郷」
走錨=依頼主からの荷物を守って遠距離を移動~その行程では多くの危険が待ち伏せている。

実際には、、、
保錨が高手の集団だと知っていた盗賊たち。デメリットが多いことが分かっていたので、襲ってくることは殆どなく~挨拶を交わして、互いに名乗り~裏取引的なことを。。。

錨局~盗賊がいてこそ成り立つ職業。。。盗賊の存在によって食べていくことが出来る。

★続きは、又。。。((((((/-_-)/
by takeichi-3 | 2016-05-13 23:56 | 偉人たち | Comments(0)

葉問最後の中国国内弟子。。。郭富

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葉門の弟子といえば、ブルース・リーが最も有名ですが、、、

葉問が香港に居を移す前、、、
仏山で中国内地では最後の弟子(七番目)となった郭富(1919~2011)が、九十歳の時に語ったエピソードなど。。。


葉問が教拳をしていた花紗店の隣にあった糖面店で働いていた郭富は、收徒を許された嬉しさから、
大声で「師父!」と叫んだところ~「師父と呼んではならない」と、葉問に厳しく窘められた。

後に、同門の人が、「葉問はとても謙虚なので、弟子が師父と呼んだりするのを嫌がる。だから、決して呼ばないように~自分たちは、問叔と呼んでいる。」と教えてくれた。

当時、拝師式に際しては、香を焚いて師父の前に跪く~という儀式が普通だったが、葉問はこれを省いて、郭富の学費を節約してくれた。

葉問が広州と仏山で収徒したのは合計で七人。六人の先輩たちプラス郭富。
七人の中で功夫が最も優れていたという郭富は、後輩たちに葉問の大徒弟と尊称されていた。

二十歳で葉問に弟子入り~三十歳前には、広州&仏山では高手として名を馳せていた。
葉問も特別に目をかけていて、郭富が勤めていた店舗が潰れ~故郷の夏教堡に戻った後には、度々彼を訪れて教拳。晩年にも訪れていた。

現在、その技術を慕って、多くの愛拳家がやってくる。

どうして、先輩たちよりも功夫が高くなれたのか?
郭富の息子郭偉湛によると、、、
・私塾で長く学んでいたので、拳譜等文字で書かれた物の理解度が高かった。
・家庭環境は貧しく~学べる機会を大切にしていたので、艱難辛苦に耐えられた。
 ⇒当時の武練は実戦がメイン~入門したての頃は、毎日飛ばされて傷が絶えなかった。
・呑み込みが早い⇒天賦の才があった。

★そんな、郭富の映像~埋め込みできないので、こちらへ。。。効果音が煩いですが~(^^;
https://www.youtube.com/watch?v=DRYkzHIQ1W0
by takeichi-3 | 2016-05-09 23:52 | 偉人たち | Comments(0)

王宗岳と張三豊。。。

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太極拳始まりの重要人物(楊式、武式など)⇒陳式では、陳王廷。
王宗岳&張三豊説~その二人の関わりなど。。。

★王宗岳
明朝万歴人。内家拳名家。
拳法、剣法、槍法に精通~数十年の研究を経て著された《太極拳譜》の中の《太極拳論》は、太極拳の経典理論と見做されている。

武式太極拳開創者武禹襄の甥李亦畲の著述《太極拳小序》には~“太極拳は、宋代の張三豊(少林寺で修行、後に武当山で道士となった明代の張三豊でない)に始まり、それを研究した王宗岳が陳家溝の陳家に伝えたと記載されている⇒当時、武禹襄も楊露禅も存命だったので信憑性が高い。

楊式太極拳伝承者の楊澄甫も《太極拳体用全書》の序の中で~“楊氏始祖たちによると、太極拳は宋張三豊に始まり、王宗岳、張松溪、蒋発等に伝わり~陳長興師は蒋発の唯一の弟子”と記している。

陳微明は《太極拳術》の中で~“太極拳術は、宋張三祖師による”と。。。

★民間伝承⇒小王堡村に伝わる「鉄腕王二故事」
武術世家に生まれた王二。父親は商いを営んでいた。
幼い頃から父より練武。ある時一人の雲遊道士が小王堡村にやって来た時に病に倒れた。お金を持っていない、貧しい身なりの道士の面倒を見ようとする者はいなかった。

道士を見かけた王二は、家へと連れて帰り手厚く看病した。
王二の性格の良さ、物覚えの良さなどを見抜いた道士は、自身の武功を王二に伝授~この教えにより、王二の武功は非常に高いものになった~ある時、六尺の高さがある巨大な石柱を腕を振り下ろして真っ二つにしてしまい~ “鉄腕王二”と呼ばれた。

後になって、人々は、あの道士が張三豊だったことを知った。

王宗岳の父の名は王祖通、三人の男の子と一人の女の子がおり、長男は王宗行、次男は王宗岳、三男は王宗梁⇒鉄胳膊王二=王宗岳。

★王宗岳の太極拳伝承。。。
蒋発は、明万歴二十四年に山西の王林桢(字宗岳)に七年拳を学んだ。
故郷に戻って、河南温県趙堡鎮にこの技を伝えた⇒王宗岳は武当趙堡(和式)太極拳宗師。蒋発は第二代伝人。

★趙堡太極拳の源流 ⇒ http://takeichi3.exblog.jp/18703811/
★武式太極拳⇒ http://takeichi3.exblog.jp/20129491
★陳王廷⇒ http://takeichi3.exblog.jp/23821151
by takeichi-3 | 2016-05-04 23:58 | 偉人たち | Comments(0)