北京で太極拳

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段智良(気功世家)。。。《無極養生功》

三十年前、太極拳を始めた頃、同時にその存在を知った当時の気功の神秘的なイメージ通りの動画。
登場するのは、段智良老師(1908年-1916年)
民間中医研究所主任医師兼骨科主任、気功点穴科主任、高級気功師。



来歴~本人が語った以外の資料が極端に少ないのですが。。。
清王朝武衛御医の家に生まれて、6歳の時より先祖伝来の《無極混沌功》を学ぶ。
習文修武を尊ぶようにという家訓もあり、専門の中医以外に武術も修め~数十年に及び勤学苦練の後、気功、中医、武術~全ての造詣を深め、健身、養生治病の方法を感悟した。

練功に一番適した時間は、夜十一時から  午前一時の間。
「子時得気」「馬時練血」「卯酉筋骨」。。。という決まりがある。


★《無極養生功》。。。拉筋抜骨、纏丝~内劲を養える功です。


by takeichi-3 | 2016-09-12 23:58 | 偉人たち | Comments(0)

木人桩。。。葉問

喉の癌に冒された身体~頑強な意思で病魔と闘いながら、詠春拳の未来の為に、二人の息子の力を借りて死の三日前に撮影されたという映像。当初は、八斬刀、六点半棍なども撮影する予定だったが、体力的に無理だと判断した息子たちの反対に遭い断念したそうです。



葉問の元にいた頃は、木人桩を習う機会がなかったブルース・リー。
ハリウッドで名を為した後~香港に戻ってきた時、詠春木人桩法の伝授&アメリカに帰った時の自主練用に撮影を~一軒の家を進呈するからと葉問に申し出たが拒絶される。

非常に良い条件だったので、周囲にいた弟子たちは残念がったが~葉問は、、、
「心から功夫を願い探求する者には全力で伝授するが、功夫を商売道具として扱う者には与えない」

「徒弟が良い師父を見つけるのは難しい。だが、師父が良い弟子を見出すのは更に困難だ」
葉問には郭富という名の徒弟がいた⇒ http://takeichi3.exblog.jp/25216089/
五年教え~葉問は、努力家のこの弟子を気に入っていたのだが、郭富は失業してしまい、止む無く故郷へと帰って行った。その後の二年余り、自ら数十里の道を徒歩で郭富の元へ赴いて詠春拳を伝授し続け~全ての拳譜を記録させた。

この動画は、いずれの弟子たちにも等しく自分の技術を残そう~という考えで撮影された。
という話を思い出していました。。。
by takeichi-3 | 2016-05-31 23:59 | 偉人たち | Comments(0)

大刀王五(清朝末年の武師)。。。

霍元甲とも親しいかったという大刀王五(清朝末年の武師)
※下記説明の順序、動画通りではない部分もあります。



1898年、戊戌変法(政変)を計画して、北京へと来ていた譚嗣同の衣食住の面倒を見ていた大刀王五~クーデター計画が西太后に発覚、首謀者として捕らえられて斬首された譚嗣同を始めとした戊戌六君子を救い出せなかった。。。

譚嗣同が獄中の壁に記した遺書の中に「両崑崙」という言葉の中に隠されている、自身が成し遂げられなかった改革の実現を託した二人の人物⇒康有為と大刀王五~一人は北京を離れて、一人は北京に残っていた。

★戊戌の政変
光緒帝のもと、康有為ら革新的官僚が近代化を推し進めようと起こった一種のクーデター。
協力を持ち掛けた袁世凱により、保守派西太后に密告され~光緒帝は逮捕幽閉。首謀者として譚嗣同は処刑。康有為、梁啓超は逃亡~日本に亡命した。


王正誼(1844年—1900年)、字子斌⇒俗称「大刀王五」。
河北滄州で生まれた、北京で名の知られた武林名侠。義を重んじる侠客としての生涯。
清末の武林十大高手のトップ⇒董海川、燕子李三、霍元甲、黄飛鴻等が名を連ねている。

極貧の農村に生まれた王五。三歳の時に父親を病で失い。小さい頃から雑役をこなしながら母と命をつないでいた。十二歳の時に焼餅店の見習いとなり~滄州で有名な錨師(ガードマン)双刀李鳳岡を師として学芸。その後十数年、ガードマンを生業としながら、李鳳岡の武芸を真伝~習武の少年は、強壮な硬骨漢となっていた⇒李鳳岡の第五番目に列する弟子だったので「小王五」と呼ばれていた。

以前の武術界、弟子は師匠から十八般兵器等も学んだ。それぞれの師匠には、各々の得意があった~李鳳岡が得意としたのは六合拳~では、大刀王五の大刀は何故?

三十歳の時、北京で、第二の師匠となる山西董に師事して単刀を学んだ。
長くガードマンを務めていた王五の腕力は抜きんでていて、他よりも大きな刀を作らせた。言い伝えによると、50kgあったという稀有な武器~その効果は関雲長の大刀に引けを取らない威力があったという。この大刀のことは北京以外の地域にも伝わり~世間から「大刀王五」と呼ばれるようになった。

大刀王五を題材にした書籍、映画等は数多くある。
写真の右側の人物が大刀王五~唯一の写真。写真の背景に「源順錨局」の額があって、王子斌、王子亮という名前が見られるが、王子斌=王五。まだ若い姿から察するに、錨局を開設して間もない頃に写したものではないかと。

友人の援助を得て1870年に北京に錨局を設立。
需要が多かった時期~徳義高尚だった彼の商いの評判は良く、短期間の間に繁盛するようになった。

当時の流行り歌。
「走錨者、英雄也、白龍馬、梨花槍、走遍天下是故郷」
走錨=依頼主からの荷物を守って遠距離を移動~その行程では多くの危険が待ち伏せている。

実際には、、、
保錨が高手の集団だと知っていた盗賊たち。デメリットが多いことが分かっていたので、襲ってくることは殆どなく~挨拶を交わして、互いに名乗り~裏取引的なことを。。。

錨局~盗賊がいてこそ成り立つ職業。。。盗賊の存在によって食べていくことが出来る。

★続きは、又。。。((((((/-_-)/
by takeichi-3 | 2016-05-13 23:56 | 偉人たち | Comments(0)

葉問最後の中国国内弟子。。。郭富

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葉門の弟子といえば、ブルース・リーが最も有名ですが、、、

葉問が香港に居を移す前、、、
仏山で中国内地では最後の弟子(七番目)となった郭富(1919~2011)が、九十歳の時に語ったエピソードなど。。。


葉問が教拳をしていた花紗店の隣にあった糖面店で働いていた郭富は、收徒を許された嬉しさから、
大声で「師父!」と叫んだところ~「師父と呼んではならない」と、葉問に厳しく窘められた。

後に、同門の人が、「葉問はとても謙虚なので、弟子が師父と呼んだりするのを嫌がる。だから、決して呼ばないように~自分たちは、問叔と呼んでいる。」と教えてくれた。

当時、拝師式に際しては、香を焚いて師父の前に跪く~という儀式が普通だったが、葉問はこれを省いて、郭富の学費を節約してくれた。

葉問が広州と仏山で収徒したのは合計で七人。六人の先輩たちプラス郭富。
七人の中で功夫が最も優れていたという郭富は、後輩たちに葉問の大徒弟と尊称されていた。

二十歳で葉問に弟子入り~三十歳前には、広州&仏山では高手として名を馳せていた。
葉問も特別に目をかけていて、郭富が勤めていた店舗が潰れ~故郷の夏教堡に戻った後には、度々彼を訪れて教拳。晩年にも訪れていた。

現在、その技術を慕って、多くの愛拳家がやってくる。

どうして、先輩たちよりも功夫が高くなれたのか?
郭富の息子郭偉湛によると、、、
・私塾で長く学んでいたので、拳譜等文字で書かれた物の理解度が高かった。
・家庭環境は貧しく~学べる機会を大切にしていたので、艱難辛苦に耐えられた。
 ⇒当時の武練は実戦がメイン~入門したての頃は、毎日飛ばされて傷が絶えなかった。
・呑み込みが早い⇒天賦の才があった。

★そんな、郭富の映像~埋め込みできないので、こちらへ。。。効果音が煩いですが~(^^;
https://www.youtube.com/watch?v=DRYkzHIQ1W0
by takeichi-3 | 2016-05-09 23:52 | 偉人たち | Comments(0)

王宗岳と張三豊。。。

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太極拳始まりの重要人物(楊式、武式など)⇒陳式では、陳王廷。
王宗岳&張三豊説~その二人の関わりなど。。。

★王宗岳
明朝万歴人。内家拳名家。
拳法、剣法、槍法に精通~数十年の研究を経て著された《太極拳譜》の中の《太極拳論》は、太極拳の経典理論と見做されている。

武式太極拳開創者武禹襄の甥李亦畲の著述《太極拳小序》には~“太極拳は、宋代の張三豊(少林寺で修行、後に武当山で道士となった明代の張三豊でない)に始まり、それを研究した王宗岳が陳家溝の陳家に伝えたと記載されている⇒当時、武禹襄も楊露禅も存命だったので信憑性が高い。

楊式太極拳伝承者の楊澄甫も《太極拳体用全書》の序の中で~“楊氏始祖たちによると、太極拳は宋張三豊に始まり、王宗岳、張松溪、蒋発等に伝わり~陳長興師は蒋発の唯一の弟子”と記している。

陳微明は《太極拳術》の中で~“太極拳術は、宋張三祖師による”と。。。

★民間伝承⇒小王堡村に伝わる「鉄腕王二故事」
武術世家に生まれた王二。父親は商いを営んでいた。
幼い頃から父より練武。ある時一人の雲遊道士が小王堡村にやって来た時に病に倒れた。お金を持っていない、貧しい身なりの道士の面倒を見ようとする者はいなかった。

道士を見かけた王二は、家へと連れて帰り手厚く看病した。
王二の性格の良さ、物覚えの良さなどを見抜いた道士は、自身の武功を王二に伝授~この教えにより、王二の武功は非常に高いものになった~ある時、六尺の高さがある巨大な石柱を腕を振り下ろして真っ二つにしてしまい~ “鉄腕王二”と呼ばれた。

後になって、人々は、あの道士が張三豊だったことを知った。

王宗岳の父の名は王祖通、三人の男の子と一人の女の子がおり、長男は王宗行、次男は王宗岳、三男は王宗梁⇒鉄胳膊王二=王宗岳。

★王宗岳の太極拳伝承。。。
蒋発は、明万歴二十四年に山西の王林桢(字宗岳)に七年拳を学んだ。
故郷に戻って、河南温県趙堡鎮にこの技を伝えた⇒王宗岳は武当趙堡(和式)太極拳宗師。蒋発は第二代伝人。

★趙堡太極拳の源流 ⇒ http://takeichi3.exblog.jp/18703811/
★武式太極拳⇒ http://takeichi3.exblog.jp/20129491
★陳王廷⇒ http://takeichi3.exblog.jp/23821151
by takeichi-3 | 2016-05-04 23:58 | 偉人たち | Comments(0)

王西安(体験功夫)。。。陳照奎

体験功夫。。。陳家溝~三人目の老師は「王西安」



その姓を見ても分かるように(陳ではない)、他から陳家溝へとやってきた家族。
拳を習いたくとも彼の姿が見えるやいなや門を閉ざされたり~年下の子供に負けたり。。。

1958年、村を離れて各地で武術指導をしていた陳照丕が陳家溝に戻って、武術学校を開設。
陳姓でなくとも、何歳でも、男女の区別もなく受け入れた。王西安は水を得た魚のように技術を吸収~実戦的な太極拳に重点をおいた指導をしている。


★補足★
「陳照丕(1893~1971)」⇒陳氏太極拳第十代伝人。叔父陳発科より学ぶ
1941年、イナゴが大量発生して穀物に多大な被害を与え、その翌年には河南省一帯の大旱魃~等で村民たちの暮らしは逼迫。飢えを凌ぐために草の根や木の皮を食べたり~青壮年たちは村を離れて出稼ぎに行ってしまい、練武者が激減していった。その現状を目の当たりにして、陳家拳の失伝を恐れて帰郷。

当時の弟子~王西安、朱天才、陳小旺、陳正雷、陳德旺、王天宝など三十人余りが集まった。

1966年。文化大革命時~太極拳は大毒草と称され、陳家の先祖を祀る堂や位牌は破壊された。
74歳になっていた陳照丕は迫害され、共に練拳した者たちは「搞小集団」と批判されて、自由に練習が出来なくなっていた⇒「夜聚明散=夜になると集まって練習、朝には解散」

1967年。陳照丕には四つの罪が問われていた。
第一は地主。第二は国術教官。第三は国民政府で教拳していた時に国民党に加入。第四は旧資産階級による反動組織に加入。

幾度かの批判に晒され、耐えきれなくなり~1967年初春に井戸に飛び込んで自殺を図る。
水が浅かったために命を落とすことはなく救出されたが、井戸の底に設置されていた竹筒が足に刺さり怪我を負った。

批判対象者の陳照丕を敢えて治療しようとする医者はおらず、陳正雷と陳春雷は家に連れ帰って塩水で傷口を洗ったり、酒で消毒したりしたが~結果は芳しくなく、片足は使えなくなってしまった。

1969年。人民日報に、「体操、球技、ランニング、登山、水泳、太極拳等の運動を行おう」という毛沢東のスローガンが掲載された。

この記事を読むや否や、新聞を握りしめて陳正雷を探し出し~
「小雷、毛主席が太極拳をやってもいいと~練拳は法を犯すことにはならない」
と、村の青少年たちに練拳を禁じる必要がなくなったことを喜び、資料を整理~「理論十三篇」をまとめた。

1972年。12月30日、80歳で逝去。

★陳発科⇒ http://takeichi3.exblog.jp/22156909/

by takeichi-3 | 2016-04-24 23:57 | 偉人たち | Comments(0)

呉京的練功。。。

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武世家に生まれた「呉京」
息子には、一歳半から武術修行を開始と、去年話題になっていましたが、、、

多分、映画デビュー前後の動画。
クリアな映像ではありませんが、今後の活躍が期待されている実力カンフー俳優の基礎が培われた時の様子が覗えます。





★武術関係の文章に見られる言葉「扎实=しっかりとした基礎が出来ている」~呉京です。
by takeichi-3 | 2016-04-22 23:59 | 偉人たち | Comments(0)

失伝危惧種。。。楊氏快(長)拳

★董英傑(楊澄甫入室弟子)の楊氏快拳。。。
楊式を学ぶ以前に学んでいた武式太極拳も加味された「董氏快拳」になっているそうですが、、、



1849年頃に陳家溝を離れた楊禄禅は、その技を班侯と健侯の二人の息子に伝えた。
班侯は楊氏小架太極拳を極めたが、現在、班侯の技術を伝承している者は少ない。

兄よりも穏やかな性格をしていた健侯の元には多くの生徒が集まり、大中小の三種の架子を学んだ。健侯は、息子の少侯と澄甫に伝え~澄甫によって楊氏大架太極拳の基礎が固められた⇒現在は、澄甫が定めた定式が流伝している。

澄甫は子供の頃、拳術が好きではなく~
二十歳近くになってから学拳を始めたので、父の存命中に全ての奥義を学んだわけではない。三十歳過ぎに父親を亡くし~日夜、父の弟子たちの助けを借りて研鑽を積んだ。

楊氏兄弟と親密だった呉鑑泉。その弟子の馬岳梁によると、、、
「澄甫は、よく、鑑泉老師の家に来ては推手をしていた。その時、楊氏快拳を使っているのを見たが~澄甫亡き後、楊氏快拳は失伝してしまった~当時、澄甫は北平体育研究社で授拳していた。その頃は、まだ太ってはおらず英俊潇洒な感じだった。快拳をこなすには身軽でなければならない」

楊少侯、澄甫と呉鑑泉が北京体育研究社で太極拳を教えていた時には、“全ての架子に発劲、跳躍の動作があった=太極拳快(長)拳”~後に、楊澄甫と呉鑑泉の二人は、発劲や跳躍動作を除いた一般人にも適した太極拳架子を考え~均一でゆっくりとしたものに変えた。

澄甫の兄少侯は、これを良しとはせず~
「お前たちが変えたいなら変えればイイ。私は変えない。楊氏太極拳というのであるならば、本来の姿のままで練拳しなけらばならない」と主張~彼の教え方は、古来の練拳~弟子たちには一切の手加減もしなかったので、耐えきれずに辞めて行く者が続出。功夫は高くても、性格は粗暴~その技術を伝承した弟子は極僅かだった。

一方、澄甫の性格はとてもよくて、その教え方は辛抱強かった。
初めは、ゆっくりな動作を教え~快架子も教えたが、太り出したのが原因で快架子を指導できなくなったという。

身長も高かったが、体重は晩年に向かうにつれて徐々に増え~130kg前後になっていた。
体重に加えて非凡な楊氏太極拳の功夫も有ったので無敵~ではあったが、北京・杭州・南京等で授拳~上海・広州に至った頃には、体にかかる負担が大きくなってしまったせいで快拳が教えられなくなっていた。

★董英傑。。。
澄甫の体重を受け止めながら推手の相手が出来る数少ない弟子の中、一番の推手者。
⇒ http://takeichi3.exblog.jp/22277226/
by takeichi-3 | 2016-04-12 23:58 | 偉人たち | Comments(0)

大悲陀羅尼拳(大悲拳)。。。奇雲和尚

弟子が語った、楊禹廷老師(呉式)の思い出~の中に出てきた「大悲拳」
かなり、養生効果のありそうな動きだなぁ~と。。。



大悲拳は北京で伝承が開始され広まっていった拳。
太極拳、八卦形意拳の身法と手法、内外合一,剛柔相済、用意不用力、動中求静、虚実分明、虚領頂劲、松腰收臀、沈肩墜肘、呼吸と動作が結合。

動作は緩慢、穏重,速度は均一、行雲流水、打八方,四正四隅,主要な手法⇒劈、撩、挑、挿、挂、托、穿、搭、搓、戳、削等。

元々は、仏門に口伝身授されていた大悲拳。文字として記録されていない。
仏門密宗の内功拳法。正式名称は「大悲心陀羅尼拳」⇒略して「大悲拳」
その起源は、1500年前の唐朝年間。言い伝えによると、始祖は河南少林寺十三棍僧の一人「昙宗和尚」。至宝と見做されていたので僧でない者には無縁~世に知られることがなかった。

1937年に奇雲和尚(俗名史正綱)が口述、李瑞呈(大興県国術間館長)が執筆、奇雲和尚の弟子雲庵和尚が演練した写真を載せた《大悲陀羅尼图説》が、初めて出現した文字記述。1963年に北京中山公園で教拳を開始。

1904年に河北省保定で生まれた奇雲和尚。
父親は、江蘇省徐州市鉄路局の一般工員。徐州は山東、河南、江蘇、安徽の四省と交わる地域。南北の武林名師が集まる場所でもあった。

幼い頃から武術を愛していた史正剛(俗名)は、南北の弾腿、査拳、花拳、炮拳、洪拳、少林拳、各種の長短軟硬兵器を学んだ。

1924年、北京德勝門外の小学校で教師となり、彼を心から慕う娘と結婚して一女を得た。
子供が七歳の時に妻は病気で他界。史正剛は幼女を連れて故郷の保定に帰り、跡継ぎのいない親戚の家に預けた。その後、一人北京に戻り~宣武門外の法源寺で出家して僧「奇雲」となった。

1950年以降、国内の殆どの僧侶が還俗を強要され、奇雲は農業社の社員となった。
1963年、北京市武術協会の要請を受けて、中山公園で密宗大悲拳を教え始める。


《思い出話》
1961年5月から中山公園十字亭で、楊禹廷老師から呉式太極拳を学び始めた。
当時、老師のところを訪れる生徒は多く、十字亭内と亭外の空き地には生徒が溢れていた。当時の月謝は二元。三カ月経った頃、「お前は学生で、収入が無いのだから学費はいらない」と、既に納めた学費も返してくれた。

楊老師は若者たちを非常に愛護していた。
圧腿(ストレッチ)、踢腿(足上げ)、練腰に開腰(股)なども自ら指導してくれた。練習中、私がバランスを崩し傍にいた楊老師をまきこんでしまった。老師は石にぶつかって怪我を負い、指導が出来なくなってしまい~「由史師爺(有名な奇雲大師=楊老師の大親友)が開腰を教える」と。。。

楊老師お気に入りの兄弟子(馬有清、李秉慈)たちは、奇雲大師から大悲陀羅尼拳(大悲拳)を学んでいた。後に、私たちも楊老師の同意の下、学ぶことが出来た。その他、楊老師は李秉慈先生には「四門刀」「夜叉棍」「降魔剣」を馬有清先生には「純陽剣」を私たちに教えるよう命じた。

人柄が良かった楊老師の友人は多く~奇雲大師&八卦形意の駱興武老師とは、いつも練習場所でお茶を飲みながら話をしていた。

六十年代初夏のある日、楊老師の友人呉图南老老師も来ていた。
多くの学生たちが呉老師の拳芸を見たがり、馬有清先生が相手をすることになって~馬先生は、よく、駱老師を始めとした形意拳名家たちから学んでいたので功夫は高く、大会では三年連続優勝していた~形意拳の「虎捕」~両手で呉老師の胸を捕らえようとしたが、簡単に二丈(6.666…m)も飛ばされてしまった。「呉图南は、各地で多くの高手と手合わせしていて~功夫深厚…」と、楊老師。。。
by takeichi-3 | 2016-04-03 23:53 | 偉人たち | Comments(0)

最近の高佳敏。。。

「太極女皇」と呼ばれている高佳敏の最新表演。。。



現在は、アメリカに拠点を移している高佳敏の「世界太極拳ネット」でのインタビュー。

八歳の時に福州市井一嵐山小学校で孫崇雄老師より習武を始めた。
一年ほど過ぎた頃、学校の予算の関係で武術の授業が無くなってしまい~孫老師の移動に隋いて前衛小学校に転校。毎日練習を続けた。早朝、拡声器から広報が流れると起床し、走って老師の家へ~練習が終わると走って学校へ~学校で父親が運んでくれた朝食を食べて~授業が終わると老師の元へ~を一年半続けた。

子供の頃は虚弱体質だったけど、練武術で改善できた。
動くのは好きだったし、楽しかったし~武術は私の親友みたいな存在になった。両親は理解を示してくれ、反対することはなかった。学校の成績は良くて学級委員長にも選ばれていたのに、習武の為に二回転校した。 

1977年に福建省武術隊が組織され、恩師の曾乃梁老師に選ばれて福建隊の最初の選手となった。1978年、福建武術隊の代表として、初めて全国武術大会に参加。女子代表六名の中で一番年下~以降、1998年に引退するまで選手として参加し続けた。

初期の頃、福建隊の練習環境は、専用の練習スペースも絨毯もなくて最悪だった。
ある時、「側空翻劈叉=側宙から前後開脚」を練習している時に膝関節を傷めてしまい、選手を続けるには、跳躍が少ない種目に変えなければならなくなった。

南拳にするか太極拳にするか。。。
隊の中には、既に全国太極拳チャンピオンがいたので~南拳のコーチから「呑み込みが早いから、南拳でも直ぐに良い成績が得られる。太極拳だとしたら長く活躍している彼女を超えるのは難しい。いつまで経っても彼女の後ろ~」と言われた。

元々、お転婆で活発だったから、誰も太極拳が向いているとは思っていなかった。
当時、太極拳が習得に時間がかかるなんて知らなかったし、南拳よりも見栄えが良く女子に向いていていると思ったので太極拳に決めた。大志とかがあったわけではない。

太極拳を練習する為に書法を学び、針灸を学び~落ち着きが出てきた。
父は字が上手くて、家でも練習をしていたということも影響している。書法は毎日、針灸は週二回老師の元で学んだ。続けるうちに、虚実の変化、陰陽の変化を体得することができた。

太極拳で、まだ良い結果が出ていない頃、山西の楊振鋒老師と哈爾濱の張继修老師が指導に来たことがあって~老師たちから「素質がある。将来、良い成績を獲得するだろう」と励まされ~優勝したこともなく、隊の主力選手でもなかったけれど~どんなに辛くても続けていこうと心に固く決めた。

太極拳練習を始めて八年が経って、ようやく全国大会の太極拳&太極剣で金メダルを獲得。
以降、十年近く、世界武術大会、アジア大会、全運会、全中国大会等々の大きな大会で32枚の金メダルを獲得した。

1999年に引退してからアメリカに。。。
太極拳や太極剣での金メダル以外、蟷螂拳では銀メダルを獲得している。多分、初めて蟷螂拳を習った女子だと思う。山東隊の于海老師に随いて学んだ。また、剣対練でも三位を獲得していたけれど、時代と共に競技プログラムの中に難度跳躍動作などが取り入れられるようになり~競技生活からの引退を決めた。

現在のアメリカでの教拳。。。
殆どの学生たちの目的は養生保健。
初級者は24式簡化太極拳と32式太極剣の套路を学んだ後、私たちが特別に採用している鏡式(動作を左右入れ替える)練習。一般的に、人は利き手の力が強くて、もう一方は弱い~そのバランスを整えるのに役立つ方法。左手32式太極剣の効果は大きい。

太極拳を広く発展させていく為には太極拳の競技化(規定化)も大切だと思う。
太極拳は、多くの名家や先輩たちが私たちに残してくれた貴重な文化遺産だけど、世の中の発展と進歩に合わせて科学的に理解していったほうが~伝統太極拳も、創生した時から変化をしていないという訳ではない⇒「変化が無い=生命力が無い」⇒変化するにつれて良くなっていく~時代時代に合った形に=伝統が受け継がれていく基礎になる。
by takeichi-3 | 2016-04-01 23:44 | 偉人たち | Comments(0)