北京で太極拳

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カテゴリ:偉人たち( 113 )

サモハン・キンポー。。。武行の道

自身が主演&監督した新作「我的特工爺爺」を前に、、、
サモハン・キンポー&七小福のメンバー「元華」「元庭」が語る武行。。。

《補足》
初期の香港映画の中、武術を演じる俳優は「龍虎武師」と呼ばれていたが、後に「武術演員」「武行」と呼ばれるようになった⇒武術訓練を受けた、アクションに携わる映画人。



私は、劇曲(京・昆劇)の出身。
龍虎武師を経て、アクション映画を撮影してきた。拳脚(拳打脚踢=武術)の中で、いつの間にか人生の大半を過ごしていた。

武術魂は、今でも存在している。カメラの前でもそれ以外でも、一つ一つの動作に習武者の気風が失われないよう~維持し続けてきた。

始まりは7人での舞台表演⇒七小福という名になった。

小さい頃、病気になったからって師匠には言えなかった。もし、病気だと言ったら、師匠から二倍の練習を命じられた⇒汗をかけば、すぐに良くなるから。。。

倒立~一時間が経つと、顔は赤く浮腫んで、目の玉が飛び出ているような感覚になった。

弟弟子が間違えると、先ず兄弟子を探し出して叩いた~体中に藤の鞭で打たれた無数の筋が。。。

厳しい師匠からは優秀な弟子が生まれる~だから、私が師兄弟に教える時には厳しく指導した。

そして、七小福が形成された。

私は14歳の時には武行を始めていた。
1日~2日撮影して戻ってくると、直ぐに数人の師兄弟たちに映画でのカンフーを教えた。

ユン・ピョウもジャッキー・チェンも金宝が連れてきた。

私たちを連れて撮影に参加させた。スタントをやったり、アクションをやったり。

五階から落ちる~八階から落ちる。。。

当時は、科学的な技術なんてなかった~全部、自分たちの体でこなしたんだ。

金宝は、後空翻(バク転)でテーブルの上に落ちて壊すアクションを要求した~振り向いて位置を確認するのはダメだという~結果、テーブルの半分が壊れる程度。そしたら~映りがよくない、粉々に壊さなければ~と、新しいテーブルを運ばせた。

今に至るまで、香港のアクション映画は一流。多くのアクション指導者や監督がいる。彼らは全世界に影響を与えている。

七小福は、私たちの信念になっている~「吃苦耐労=困苦を厭わない」

今では、疲れるから監督を務めたいとは思わないが、この「我的特工爺爺」には惹きつけられるものがあって~やってみた。


★アンディ・ラウの娘を演じている少女と主題歌を歌っていますが、、、かなり上手!




★共演しているアンディ・ラウによる主題歌。。。


by takeichi-3 | 2016-03-25 23:54 | 偉人たち | Comments(0)

南京。。。87歳の拳師

1929年3月生まれ。今年87歳になる南京の「王祺老師」。
中国ネット上~最近になって多くの動画がUPされています。。。

毎朝、習慣になっている練拳。。。



1953年、南京熊猫電子グループで高級エンジニアたちを指導~定年で退職するまで働いた。ロシア語、日本語に精通している。

子供の頃から武術が好きだった王祺~瀋陽で少林拳等の拳法を学び、1947年に北京大学で学ぶため北京に来た後、王という名の師匠に一般的な武術を学んでいたが、ある時、「小王、私が教えられるのはここまでだ。受け入れてくれるかどうかは縁分だろうが、良い老師がいる」と教えられたのが、有名な武術家梅花拳大師の「韓其昌」。

若く、余裕が無かった王祺は、50個の卵を持参して弟子入りを乞い~その善良な人柄と武術に対する愛を認めれられて弟子入りが許された。

韓其昌に学び始めてから本物の武術を知ったと言う王祺。
人々から「沱南侠」と呼ばれていた韓其昌は、形意拳単刀の達人「李存義」の弟子。又、梅花拳第十六代伝承者。梅花拳には千年以上の歴史がある。

梅花拳は、百本近くの杭の上で練功~初心者は五勢から学ぶ~
※以下~実践&指導の映像をお楽しみください。。。(((((((/-_-)/

《補足》
南京で就職してからも、北京へ出張する機会があれば韓其昌老師の元を訪れ、拳理や拳法の教えを乞い~南京に戻ってから練習~を数十年来続けた。

自身の練習以外、武術を愛する青年たちに梅花桩、形意拳、八卦掌などを指導している。
現在、南京、深圳などに多くの弟子がいる。

王祺老師が、いつも口にしているのは。。。
「韓老師は拳だけではなく、武術の精神と人に対する道理なども教えてくれた。私たちは、それを継承発展させていかなければならない。この善きものを途絶えさせてはならない」
by takeichi-3 | 2016-03-23 23:59 | 偉人たち | Comments(0)

少林十八銅人。。。

突然。。。「少林十八銅人」って、何だろう?と思ったりして、、、


十八羅漢から派生しているのでは???
少林銅人陣は、少林寺で著名な陣法の一つ~十八銅人で組成。
少林十八銅人の名は、小説や映画を通じて世に知れ渡っている。

「少林十八銅人」は、功夫が成っていない少林弟子の下山を防止⇒少林の名声を損なわすことがないよう寺門前に十八銅人を侍らせ、許可なく寺を出ようとする弟子を見張った⇒彼らを打ち負かした=功夫が成った~と判断された。また、敵の侵入をも防いだ。

彼らの修行と武芸のレベルは、一般を遥かに超えていたが~まだ仏までには至らず、通常は入定=銅像のように不動。任務を執行する時には人のように動いた。

少林寺に伝わっているのは、、、
十八銅铜人の起源は、唐朝の十八棍僧が唐王を救ったという伝説に由来しているとか。。。
少林寺武僧に救われた李世民(太宗)が皇帝となった後、武僧を原型とした銅像を寄贈した。








「周星馳」タイプ。。。


by takeichi-3 | 2016-03-15 23:58 | 偉人たち | Comments(0)

金庸。。。武侠小説家

今年、92歳になった武侠小説の第一人者「金庸」
誕生日祝いのメッセージを多くの俳優が伝えています。

「自分には武功が無い~インスピレーションが何処から来るのか説明ができない。天性かな」
と、語る金庸。。。



阿里巴巴のCEO「馬雲」も、、、
「男なら金庸の小説を読まなければ~想像力、ロマンス、義侠に溢れている。特に義侠~正しいことを行うという精神~阿里巴巴設立以降、その思想を取り入れている」とメッセージを贈っています。


2011年9月にブログに書いたものですが、、、

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「金庸」、知る人ぞ知る〜香港の武侠小説家です。
最新号の雑誌“環球人物”は金庸の特集。

その中、
「本を書いたのは、家族を養うお金を稼ぐため」
という、妹が語る兄の思い出が。。。

祖父は金融業を営んでいて、門が五つ、部屋数は90余り~大きな花園もあったという大宅門に暮らし、数千畝の田畑を貸して、豊かに暮らしていた子供時代。

邸宅内には無尽蔵に書物があり、本の虫となっていった金庸。
“荒江女侠”に魅せられ〜10歳の誕生日に贈られた本“クリスマスキャロル”の中に冷酷非情な守銭奴が慈愛に満ちた善人に生まれ変わるのという物語に感動。
この本は、今現在でも大切に所有しています。

父親には二人の妻がいて、
一人目の妻との間には5男2女が生まれ、その二番目の男の子が金庸。二番目の妻との間には3人の子供がいました。

金庸に大きな影響を与えた祖父は一族で最後の科挙合格者。
「丹陽教案=キリスト教宣教師たちに反発した丹陽の住民たちが教会に焼き打ちをかけた。」の勃発に際し、清政府から「首謀者を調べろ」という命を受けた祖父「査文清」は、首謀者二人をうまく逃亡させ、協力者たちにも丹陽を離れるように促し~その安全を確認した後に、首謀者はいないと報告。官職を退いた。

金庸が生まれて間もなく祖父は逝去。
1936年に小学校を卒業した金庸は中学に入るため、生家を離れる。
その後、1945年まで家に戻らず。
初めての里帰り。弟妹に水滸伝や封神演義などの物語を手足を動かしながら読み聞かせてくれた。

1950年。反動地主として鎮圧され死んでいった父。
残った家族十人の生活は逼迫。既に故郷を離れ、香港の新聞社で働いていた二哥(金庸)に縋った。

以降、金庸は義母弟妹の生活費や学費など全ての面倒をみてくれた。
「金庸が小説を書くのは、名声が欲しいから」と言う人もいるけれど、兄は家族を養うお金を得るために武侠小説を書き続けねばならなかったのです。

※武侠小説を書く下地となったともいえる生い立ちです。


最近の金庸原作ドラマ。。。「侠客行」


by takeichi-3 | 2016-03-13 23:55 | 偉人たち | Comments(0)

中国CCTV流行無限。。。太極名師曾乃梁

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今日。。。天津上空。
北京から移動した(?)スモッグのような~

一時、良くなっていたのに~(--)。。。


「3月5日に、この番組が中国中央テレビで放送されるんだけど、見る方法は?」
という問い合わせがあった~「曾乃梁老師」が出演する「流行無限」



実際の曾乃梁老師、映像の中と同じように親しみ易く穏やかです。
10月に実施される中国武術大学名家講堂では、42式太極拳、対練、入門推手を指導。
老師をサポートする曾衛紅老師(娘)は、鳥取に留学していたので、日本語で解説してくれます。
by takeichi-3 | 2016-03-08 23:53 | 偉人たち | Comments(0)

有能な弟子には旅をさせる⇒「下山」。。。呉図南

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中央に「孫禄堂」、その右が「楊少候」、更に右が「楊澄甫」~左は「呉鑑泉」
※被撮影者基準。。。

呉図南。。。
呉鑑泉&楊少候の二人に弟子入りしているのですが、、、
「何故?」を説明している文章があったので。。。(#^_^#)

両親ともに高年齢の時に生まれた子供だったせいか、身体が弱くて病気がちだった呉図南。
宮廷医を家に呼んで治療を行ない、それなりに丈夫にはなっていったが~健康体とはいえない様子に、「練功夫が良いだろう」と医師が進言~9歳の時、家長に連れられて武術館へ⇒この武術館は全佑老師が創設したものだったが、既に古希を迎えていて~その子、呉鑑泉が太極拳を指導をしていた。

呉鑑泉の下で8年学んだ後、楊少候に弟子入りして~楊氏太極拳小架を4年間学ぶ。
どうして、このような事が可能だったのか?

呉図南によると。。。
第一段階⇒老師の元で基本をマスターした後に「出徒(出師)」~「下山」と言われる第二段階の修行に⇒江湖(世間)の荒波に揉まれる⇒異なる門派の武術者たちと切磋琢磨⇒第二段階の学生は若いので、過信気味~他派の高手に打ち負かされることで、世の中には自分よりも強い人間がいると知り虚心が生まれる。同時に実戦経験も積める~弟子がこの段階に到ると、師匠は再度受け入れ~より高度(内面)な武芸を伝授し始める⇒同じ拳でも、異なる境界の拳。。。

呉図南の性格を見込んだ呉鑑泉は、彼を楊少候に推薦~楊家小架拳を学ぶことになる。

「柔化の拳」と呼ばれていた呉鑑泉老師の拳は守りが主体で相手を打つことは殆どなかったが、その脚を移動させることは誰にも出来なかった。それに対して、楊少候老師の拳は容赦なく攻撃的だったので、高手たちも敢えて手を出す者はいなかった。。。

呉図南は、そんな二人の老師に学んでいる。




★映画「道士下山」の始まり部分。。。
主人公が山から江湖(世間)に出された意味~映画では「食料不足~」的な解説もありましたが、、、
ようやく、別の意味が理解できました。


by takeichi-3 | 2016-02-20 23:59 | 偉人たち | Comments(0)

甘鳳池。。。清代著名武術家

武術関係の書籍に「武術家甘鳳池:清初著名武術家」という言葉があって。。。
以前にYOU-TUBEにアップしたことがある名前だなぁ~と。。。




f0007580_23593454.jpg★甘鳳池
中国十大武術家の一人として、その名を挙げる人も多いのですが、、、
その生涯の影響もあってか伝人が少なく~現存している拳が少ないそうです。

清代に呉敬梓が著した長編小説「儒林外史」では、、、
甘鳳池は南京人。その名は四方に知れ渡っていた「江湖大侠」
幼い頃に父母を亡くした。勉強は嫌いだったが武術が大好きで、早くから侠客たちと交流~十代で「提牛撃虎的小英雄」と呼ばれるくらいに腕を上げて、江南地方で評判になっていた⇒「花拳総講法」を著している。


漢人は習武してはならないという時代~その決まりを破ったことで清復明の疑いをかけられ、清兵に追われて長江下流の蘇湖地方に隠れ住んでいた。

清人王友亮の「甘鳳池小伝」によると、八十歳を過ぎて、ようやく故郷に帰ったと。。。

当時、浙東には多くの拳家(張松溪、单思南、王来咸、黄百家等~明朝よりの内家拳家=雄江南)がいると聞いた甘鳳池は、師を求めて浙東へと。。。

浙江余姚城には内家拳家の黄百家がいた。
黄百家は、著名な思想家、史学家である黄宗羲の子⇒黄宗羲は、清兵が南下する際に明軍に協力~明が滅亡した後には、息子の百家に武術組織を作って抗清継続を要求。黄百家は、王来咸を師として~内家拳を取得。その功夫は精深だった。

ある日、県城高斗升の旅館に打虎小英雄の甘鳳池が来ていると聞いて、旅館を訪れ~甘鳳池と手を合わせた後、鳳池を弟子として内家拳等の武術を伝授。

三年後、黄百家は甘鳳池に、、、
「私の技術は全て伝承した。ここより八十里の大嵐山上には、各地より多くの英豪が集まっている。行仁義之師(徳をもった正しい行い⇒反清運動)~その一身武芸を、世の為人と為に~天地を揺るがす事業の為に行うように」と。。。

師の言葉通りに大嵐山上に向かった甘鳳池は、その地で一念和尚を師として少林拳を学び~行侠仗義の人生を歩むことになる。

★甘鳳池花拳。。。

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1928年に製作された≪大侠甘鳳池≫という無声映画がありますが、、、
1分50秒過ぎに出てくる刀の発想~スターウォーズの剣(泰斗セーバー)っぽいです。。。(#^_^#)


by takeichi-3 | 2016-02-04 23:54 | 偉人たち | Comments(0)

六小齢童。。。The 美猴王(孫悟空)

中国の芸能界で、美猴王(孫悟空)と言えば~この人⇒「六小齢童」
ドニー・イェンも「Monkey King」で孫悟空を演じた時、参考にしたと語っています。

2016年、申年を迎えるに際して製作されたペプシコーラのショートフィルム・・・
≪把楽带回家之猴王世家≫、主人公は「六小齢童」




f0007580_038326.jpg六小齢童の家は「猴王世家」。
曽祖父が猴戯を始め~父は六歳の時から曽祖父から指導を受け、「六歳童」という芸名を付けられ~兄&彼へと伝承された。

1976年6月に上海の高校を卒業後、浙江昆劇団芸校に入り武生を専攻。
後継者として期待されていた二番目の兄章金星は「小六齢童」という芸名で呼ばれていたが、不幸なことに、1966年に白血病に罹り夭逝。

1982年、彼が中国中央テレビの連続ドラマ「西遊記」で孫悟空を演じることになった時、父は亡き兄の芸名「小六」を逆にして、「六小齢童」という芸名を与えた~このドラマが放映と大評判に~国内外で最優秀賞を獲得。


★動画、「猴王世家」の内容。。。
「舞台に立った者は、そこから下りることはない」と父は言っていた。
章家は、四代に亘って「美猴王=孫悟空」を演じている。
曽祖父は、田舎で美猴王を演じ始めた~「活猴章」と呼ばれた。
祖父は、紹劇猴戯を広め~「賽活猴」と呼ばれた。
父は、六歳の時に学芸を始め~「六齢童」と名付けられ、自身の派を築き「南猴王」と呼ばれた。

私の世代、家には十一人の子供がいた。私は一番下。
二番目の兄は天賦の才があり、父の芸を継承~「小六齢童」と名付けられた。
その兄は、十七歳の時に白血病に罹って死んだ。
「兄さん、何処に行くの?」
「僕は、お前には分からない処に行かなけらばならない」
「どうしたら会えるの?」
「お前が美猴王になったら、会えるよ」
「ん。。。」
その時、兄の手から如意金箍棒が手渡されていたことなど、思いも及ばなかった。
彼に代わって、成し遂げられなかった道を進む。。。

1982年。テレビドラマに出演するに際して~
「あなたの息子には、表演者としての経験が無い。このドラマ版の西遊記は~」
と心配する監督。。。
「安心してください。彼は私の息子です。私が指導します」

“苦練七十二変。才能笑対八十二難”
演劇も人生も同じ。

1984年大晦日。春晩を見る余裕もなく撮影をしていた現場に届いた父からの手紙。
「息子よ、家族の皆がお前を気にかけているよ。監督から送ってもらった映像を見たが~動作には問題ないが、目に力が無い。美猴王の神韻が足りない。頑張って有神な眼を~」

それから十七年。停まることはなかった。
「舞台に立った者は、そこから下りることはない」
私たちの家族がそうです。
ある人は、私たちの事を猴王世家と呼びますが、猴戯は「章家」に属するものではなく中国の人々に属する物。

如意金箍棒は、一代一代と受け継がれ~観客たちが、喜びを家に持ち帰れるように。。。

★“苦練七十二変。才能笑対八十二難”
この動画が発表されてから、中国では西遊記哲学とも称され~
その解釈が取り沙汰されている六小齢童の言葉。
「しっかりとした学び&工夫を経験していれば、どんな難問も楽勝~♪」
みたいな感じ。。。かしら~( ' ' )~~~
by takeichi-3 | 2016-01-25 23:59 | 偉人たち | Comments(0)

李経梧。。。呉、陳、楊、孫&心意六合拳

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ポンポンと、弟子たちを跳ね飛ばしている動画が多い「李経梧」
北京で百貨店を営んでいて、老師たちに経済的援助も出来たことから~恵まれた環境で拳研究に没頭が出来たようです。



李経梧:(動画の翻訳ではありません)
1912年5月山東省掖県(莱州)生まれ。住環境が寒かったせいで、風湿症(リウマチ)に罹り~医者も手の施しようがなかったが、武術に出会って体質を改善した。

1927年より、孫楓秋&哈爾濱の劉子源より秘宗拳を学ぶ。
30年代の初めに北京に~趙鉄庵(呉)、陳発科(陳)、楊禹廷(呉)より太極拳を~胡耀貞より心意六合拳を~1941年、北平太庙(労働人民文化宮)太極拳研究会理事に。

建国後は、積極的に太極拳の普及に努め、24式&88式の編纂に協力。
50年代に、河北省の北戴河に移り、秘宗拳,陳式、呉式、心意六合拳を融合した経梧太極拳を創った。

27歳の時に弟子入りした趙鉄庵は呉式太極拳の伝承者⇒王茂斋と呉鑑泉より指導を受けていた。
その後、太庙で知り合った楊禹廷より、更に細かい架子&推手の指導を受け~その武徳にも惹かれて門下に⇒李経梧の技術を認めていた楊禹廷は、弟子というよりも研磨しあう同志として受け入れた。

王茂斋の息子「王子英」。。。
北京では一、二を争う推手の名手にも学ぶ。
王子英の性格は激しく、推手の時には手加減せず相手を飛ばしていたので、一般の腕前では相手が務まらなかった。又、父親より受け継いだ商いを営み~教拳をせずとも暮らしていける環境だったので生徒は少なく、専門家以外からの認知度は低かった。

40年代になって、陳式太極拳十七代伝承者「陳発科」が北京に伝拳の為にやって来ると、敬慕していた陳式拳の「纏絲劲」を見極めたく~陳発科を訪れ、陳式太極拳と推手を学ぶ。
そして、「胡耀貞」からは、心意六合拳を学ぶ。

陳発科は朴実な性格。河南訛りが酷くて、話していることが聞き取りづらかった。
技術は優れていたが、説明よりも実践~その手は重く、発力は強くて一般人には耐えられなかった⇒相手が出来た弟子は3~5人位。李経梧と孫楓秋もその中にいる。李経梧の体格⇒身長1m75cmの山東大漢で強壮~だったが、陳発科との推手では、二、三圏くらいで飛ばされていた。

★陳発科は、陳式太極拳中興の祖。
陳家溝以外では、認識と理解が乏しかった陳式太極拳を北京で伝拳することで発展へと導いた。
※陳発科物語⇒ http://takeichi3.exblog.jp/22156909/

50年代、国家体育協会の依頼により、楊式太極拳を主体とした制定拳、24式と88式太極拳の編纂に加わり~その際に、楊式太極拳の手法と劲路を研究~60年代になって、友人たちとの交流を通じて孫式太極拳の手法と劲路を研究。
by takeichi-3 | 2016-01-10 23:43 | 偉人たち | Comments(0)

董英傑の武徳。。。楊澄甫高弟

人格が尊敬されている太極拳名家の一人「董英傑」
教拳も真面目で、手を抜かなたったそうですが、、、
その長男、董虎峰。。。



楊澄甫高弟の一人「董英傑」
高潔な人柄で、外でも家でも他の欠点を口にすることはなく、常に人の長所を口にしていたそうです。

ある講習会で、参加者の一人が~
「同じ套路なのに、前に他の老師が教えた要求はこうだった。これは正しいのか間違っているのか?」
と口にした時。。。
「私が、その老師の要求に対してあれこれ言う必要があるのだろうか。私は自分が正しいと思っていることをあなたに教えている。その老師の考えも、きっと同じだろう。だから、どちらも正しい」

董英傑が、師の楊澄甫に随いて、武術が盛んで多くの高手がいる広州に行った時。。。
ある高官が太極拳を見て、「あんなに柔らかくて、まったりとした動きで相手を倒せるのか~」と、、、
腕試しを挑んできた。

楊澄甫は、董英傑に、、、
「あの方の相手をしてやってくれ。但し、勝つことも負けることもならない」
結果、どちらの面目も潰れることは無く~高官は、楊澄甫に董英傑に拳を学びたいと申し出た。

f0007580_02472.gif常日頃から、和やかで、慎ましい生活をしていた董英傑老師の逸話、少ないのですが、
今日、新たに見つけた話など。。。
by takeichi-3 | 2016-01-04 09:07 | 偉人たち | Comments(0)