北京で太極拳

takeichi3.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

カテゴリ:偉人たち( 117 )

呉京的練功。。。

f0007580_23474999.jpg
武世家に生まれた「呉京」
息子には、一歳半から武術修行を開始と、去年話題になっていましたが、、、

多分、映画デビュー前後の動画。
クリアな映像ではありませんが、今後の活躍が期待されている実力カンフー俳優の基礎が培われた時の様子が覗えます。





★武術関係の文章に見られる言葉「扎实=しっかりとした基礎が出来ている」~呉京です。
by takeichi-3 | 2016-04-22 23:59 | 偉人たち | Comments(0)

失伝危惧種。。。楊氏快(長)拳

★董英傑(楊澄甫入室弟子)の楊氏快拳。。。
楊式を学ぶ以前に学んでいた武式太極拳も加味された「董氏快拳」になっているそうですが、、、



1849年頃に陳家溝を離れた楊禄禅は、その技を班侯と健侯の二人の息子に伝えた。
班侯は楊氏小架太極拳を極めたが、現在、班侯の技術を伝承している者は少ない。

兄よりも穏やかな性格をしていた健侯の元には多くの生徒が集まり、大中小の三種の架子を学んだ。健侯は、息子の少侯と澄甫に伝え~澄甫によって楊氏大架太極拳の基礎が固められた⇒現在は、澄甫が定めた定式が流伝している。

澄甫は子供の頃、拳術が好きではなく~
二十歳近くになってから学拳を始めたので、父の存命中に全ての奥義を学んだわけではない。三十歳過ぎに父親を亡くし~日夜、父の弟子たちの助けを借りて研鑽を積んだ。

楊氏兄弟と親密だった呉鑑泉。その弟子の馬岳梁によると、、、
「澄甫は、よく、鑑泉老師の家に来ては推手をしていた。その時、楊氏快拳を使っているのを見たが~澄甫亡き後、楊氏快拳は失伝してしまった~当時、澄甫は北平体育研究社で授拳していた。その頃は、まだ太ってはおらず英俊潇洒な感じだった。快拳をこなすには身軽でなければならない」

楊少侯、澄甫と呉鑑泉が北京体育研究社で太極拳を教えていた時には、“全ての架子に発劲、跳躍の動作があった=太極拳快(長)拳”~後に、楊澄甫と呉鑑泉の二人は、発劲や跳躍動作を除いた一般人にも適した太極拳架子を考え~均一でゆっくりとしたものに変えた。

澄甫の兄少侯は、これを良しとはせず~
「お前たちが変えたいなら変えればイイ。私は変えない。楊氏太極拳というのであるならば、本来の姿のままで練拳しなけらばならない」と主張~彼の教え方は、古来の練拳~弟子たちには一切の手加減もしなかったので、耐えきれずに辞めて行く者が続出。功夫は高くても、性格は粗暴~その技術を伝承した弟子は極僅かだった。

一方、澄甫の性格はとてもよくて、その教え方は辛抱強かった。
初めは、ゆっくりな動作を教え~快架子も教えたが、太り出したのが原因で快架子を指導できなくなったという。

身長も高かったが、体重は晩年に向かうにつれて徐々に増え~130kg前後になっていた。
体重に加えて非凡な楊氏太極拳の功夫も有ったので無敵~ではあったが、北京・杭州・南京等で授拳~上海・広州に至った頃には、体にかかる負担が大きくなってしまったせいで快拳が教えられなくなっていた。

★董英傑。。。
澄甫の体重を受け止めながら推手の相手が出来る数少ない弟子の中、一番の推手者。
⇒ http://takeichi3.exblog.jp/22277226/
by takeichi-3 | 2016-04-12 23:58 | 偉人たち | Comments(0)

大悲陀羅尼拳(大悲拳)。。。奇雲和尚

弟子が語った、楊禹廷老師(呉式)の思い出~の中に出てきた「大悲拳」
かなり、養生効果のありそうな動きだなぁ~と。。。



大悲拳は北京で伝承が開始され広まっていった拳。
太極拳、八卦形意拳の身法と手法、内外合一,剛柔相済、用意不用力、動中求静、虚実分明、虚領頂劲、松腰收臀、沈肩墜肘、呼吸と動作が結合。

動作は緩慢、穏重,速度は均一、行雲流水、打八方,四正四隅,主要な手法⇒劈、撩、挑、挿、挂、托、穿、搭、搓、戳、削等。

元々は、仏門に口伝身授されていた大悲拳。文字として記録されていない。
仏門密宗の内功拳法。正式名称は「大悲心陀羅尼拳」⇒略して「大悲拳」
その起源は、1500年前の唐朝年間。言い伝えによると、始祖は河南少林寺十三棍僧の一人「昙宗和尚」。至宝と見做されていたので僧でない者には無縁~世に知られることがなかった。

1937年に奇雲和尚(俗名史正綱)が口述、李瑞呈(大興県国術間館長)が執筆、奇雲和尚の弟子雲庵和尚が演練した写真を載せた《大悲陀羅尼图説》が、初めて出現した文字記述。1963年に北京中山公園で教拳を開始。

1904年に河北省保定で生まれた奇雲和尚。
父親は、江蘇省徐州市鉄路局の一般工員。徐州は山東、河南、江蘇、安徽の四省と交わる地域。南北の武林名師が集まる場所でもあった。

幼い頃から武術を愛していた史正剛(俗名)は、南北の弾腿、査拳、花拳、炮拳、洪拳、少林拳、各種の長短軟硬兵器を学んだ。

1924年、北京德勝門外の小学校で教師となり、彼を心から慕う娘と結婚して一女を得た。
子供が七歳の時に妻は病気で他界。史正剛は幼女を連れて故郷の保定に帰り、跡継ぎのいない親戚の家に預けた。その後、一人北京に戻り~宣武門外の法源寺で出家して僧「奇雲」となった。

1950年以降、国内の殆どの僧侶が還俗を強要され、奇雲は農業社の社員となった。
1963年、北京市武術協会の要請を受けて、中山公園で密宗大悲拳を教え始める。


《思い出話》
1961年5月から中山公園十字亭で、楊禹廷老師から呉式太極拳を学び始めた。
当時、老師のところを訪れる生徒は多く、十字亭内と亭外の空き地には生徒が溢れていた。当時の月謝は二元。三カ月経った頃、「お前は学生で、収入が無いのだから学費はいらない」と、既に納めた学費も返してくれた。

楊老師は若者たちを非常に愛護していた。
圧腿(ストレッチ)、踢腿(足上げ)、練腰に開腰(股)なども自ら指導してくれた。練習中、私がバランスを崩し傍にいた楊老師をまきこんでしまった。老師は石にぶつかって怪我を負い、指導が出来なくなってしまい~「由史師爺(有名な奇雲大師=楊老師の大親友)が開腰を教える」と。。。

楊老師お気に入りの兄弟子(馬有清、李秉慈)たちは、奇雲大師から大悲陀羅尼拳(大悲拳)を学んでいた。後に、私たちも楊老師の同意の下、学ぶことが出来た。その他、楊老師は李秉慈先生には「四門刀」「夜叉棍」「降魔剣」を馬有清先生には「純陽剣」を私たちに教えるよう命じた。

人柄が良かった楊老師の友人は多く~奇雲大師&八卦形意の駱興武老師とは、いつも練習場所でお茶を飲みながら話をしていた。

六十年代初夏のある日、楊老師の友人呉图南老老師も来ていた。
多くの学生たちが呉老師の拳芸を見たがり、馬有清先生が相手をすることになって~馬先生は、よく、駱老師を始めとした形意拳名家たちから学んでいたので功夫は高く、大会では三年連続優勝していた~形意拳の「虎捕」~両手で呉老師の胸を捕らえようとしたが、簡単に二丈(6.666…m)も飛ばされてしまった。「呉图南は、各地で多くの高手と手合わせしていて~功夫深厚…」と、楊老師。。。
by takeichi-3 | 2016-04-03 23:53 | 偉人たち | Comments(0)

最近の高佳敏。。。

「太極女皇」と呼ばれている高佳敏の最新表演。。。



現在は、アメリカに拠点を移している高佳敏の「世界太極拳ネット」でのインタビュー。

八歳の時に福州市井一嵐山小学校で孫崇雄老師より習武を始めた。
一年ほど過ぎた頃、学校の予算の関係で武術の授業が無くなってしまい~孫老師の移動に隋いて前衛小学校に転校。毎日練習を続けた。早朝、拡声器から広報が流れると起床し、走って老師の家へ~練習が終わると走って学校へ~学校で父親が運んでくれた朝食を食べて~授業が終わると老師の元へ~を一年半続けた。

子供の頃は虚弱体質だったけど、練武術で改善できた。
動くのは好きだったし、楽しかったし~武術は私の親友みたいな存在になった。両親は理解を示してくれ、反対することはなかった。学校の成績は良くて学級委員長にも選ばれていたのに、習武の為に二回転校した。 

1977年に福建省武術隊が組織され、恩師の曾乃梁老師に選ばれて福建隊の最初の選手となった。1978年、福建武術隊の代表として、初めて全国武術大会に参加。女子代表六名の中で一番年下~以降、1998年に引退するまで選手として参加し続けた。

初期の頃、福建隊の練習環境は、専用の練習スペースも絨毯もなくて最悪だった。
ある時、「側空翻劈叉=側宙から前後開脚」を練習している時に膝関節を傷めてしまい、選手を続けるには、跳躍が少ない種目に変えなければならなくなった。

南拳にするか太極拳にするか。。。
隊の中には、既に全国太極拳チャンピオンがいたので~南拳のコーチから「呑み込みが早いから、南拳でも直ぐに良い成績が得られる。太極拳だとしたら長く活躍している彼女を超えるのは難しい。いつまで経っても彼女の後ろ~」と言われた。

元々、お転婆で活発だったから、誰も太極拳が向いているとは思っていなかった。
当時、太極拳が習得に時間がかかるなんて知らなかったし、南拳よりも見栄えが良く女子に向いていていると思ったので太極拳に決めた。大志とかがあったわけではない。

太極拳を練習する為に書法を学び、針灸を学び~落ち着きが出てきた。
父は字が上手くて、家でも練習をしていたということも影響している。書法は毎日、針灸は週二回老師の元で学んだ。続けるうちに、虚実の変化、陰陽の変化を体得することができた。

太極拳で、まだ良い結果が出ていない頃、山西の楊振鋒老師と哈爾濱の張继修老師が指導に来たことがあって~老師たちから「素質がある。将来、良い成績を獲得するだろう」と励まされ~優勝したこともなく、隊の主力選手でもなかったけれど~どんなに辛くても続けていこうと心に固く決めた。

太極拳練習を始めて八年が経って、ようやく全国大会の太極拳&太極剣で金メダルを獲得。
以降、十年近く、世界武術大会、アジア大会、全運会、全中国大会等々の大きな大会で32枚の金メダルを獲得した。

1999年に引退してからアメリカに。。。
太極拳や太極剣での金メダル以外、蟷螂拳では銀メダルを獲得している。多分、初めて蟷螂拳を習った女子だと思う。山東隊の于海老師に随いて学んだ。また、剣対練でも三位を獲得していたけれど、時代と共に競技プログラムの中に難度跳躍動作などが取り入れられるようになり~競技生活からの引退を決めた。

現在のアメリカでの教拳。。。
殆どの学生たちの目的は養生保健。
初級者は24式簡化太極拳と32式太極剣の套路を学んだ後、私たちが特別に採用している鏡式(動作を左右入れ替える)練習。一般的に、人は利き手の力が強くて、もう一方は弱い~そのバランスを整えるのに役立つ方法。左手32式太極剣の効果は大きい。

太極拳を広く発展させていく為には太極拳の競技化(規定化)も大切だと思う。
太極拳は、多くの名家や先輩たちが私たちに残してくれた貴重な文化遺産だけど、世の中の発展と進歩に合わせて科学的に理解していったほうが~伝統太極拳も、創生した時から変化をしていないという訳ではない⇒「変化が無い=生命力が無い」⇒変化するにつれて良くなっていく~時代時代に合った形に=伝統が受け継がれていく基礎になる。
by takeichi-3 | 2016-04-01 23:44 | 偉人たち | Comments(0)

サモハン・キンポー。。。武行の道

自身が主演&監督した新作「我的特工爺爺」を前に、、、
サモハン・キンポー&七小福のメンバー「元華」「元庭」が語る武行。。。

《補足》
初期の香港映画の中、武術を演じる俳優は「龍虎武師」と呼ばれていたが、後に「武術演員」「武行」と呼ばれるようになった⇒武術訓練を受けた、アクションに携わる映画人。



私は、劇曲(京・昆劇)の出身。
龍虎武師を経て、アクション映画を撮影してきた。拳脚(拳打脚踢=武術)の中で、いつの間にか人生の大半を過ごしていた。

武術魂は、今でも存在している。カメラの前でもそれ以外でも、一つ一つの動作に習武者の気風が失われないよう~維持し続けてきた。

始まりは7人での舞台表演⇒七小福という名になった。

小さい頃、病気になったからって師匠には言えなかった。もし、病気だと言ったら、師匠から二倍の練習を命じられた⇒汗をかけば、すぐに良くなるから。。。

倒立~一時間が経つと、顔は赤く浮腫んで、目の玉が飛び出ているような感覚になった。

弟弟子が間違えると、先ず兄弟子を探し出して叩いた~体中に藤の鞭で打たれた無数の筋が。。。

厳しい師匠からは優秀な弟子が生まれる~だから、私が師兄弟に教える時には厳しく指導した。

そして、七小福が形成された。

私は14歳の時には武行を始めていた。
1日~2日撮影して戻ってくると、直ぐに数人の師兄弟たちに映画でのカンフーを教えた。

ユン・ピョウもジャッキー・チェンも金宝が連れてきた。

私たちを連れて撮影に参加させた。スタントをやったり、アクションをやったり。

五階から落ちる~八階から落ちる。。。

当時は、科学的な技術なんてなかった~全部、自分たちの体でこなしたんだ。

金宝は、後空翻(バク転)でテーブルの上に落ちて壊すアクションを要求した~振り向いて位置を確認するのはダメだという~結果、テーブルの半分が壊れる程度。そしたら~映りがよくない、粉々に壊さなければ~と、新しいテーブルを運ばせた。

今に至るまで、香港のアクション映画は一流。多くのアクション指導者や監督がいる。彼らは全世界に影響を与えている。

七小福は、私たちの信念になっている~「吃苦耐労=困苦を厭わない」

今では、疲れるから監督を務めたいとは思わないが、この「我的特工爺爺」には惹きつけられるものがあって~やってみた。


★アンディ・ラウの娘を演じている少女と主題歌を歌っていますが、、、かなり上手!




★共演しているアンディ・ラウによる主題歌。。。


by takeichi-3 | 2016-03-25 23:54 | 偉人たち | Comments(0)

南京。。。87歳の拳師

1929年3月生まれ。今年87歳になる南京の「王祺老師」。
中国ネット上~最近になって多くの動画がUPされています。。。

毎朝、習慣になっている練拳。。。



1953年、南京熊猫電子グループで高級エンジニアたちを指導~定年で退職するまで働いた。ロシア語、日本語に精通している。

子供の頃から武術が好きだった王祺~瀋陽で少林拳等の拳法を学び、1947年に北京大学で学ぶため北京に来た後、王という名の師匠に一般的な武術を学んでいたが、ある時、「小王、私が教えられるのはここまでだ。受け入れてくれるかどうかは縁分だろうが、良い老師がいる」と教えられたのが、有名な武術家梅花拳大師の「韓其昌」。

若く、余裕が無かった王祺は、50個の卵を持参して弟子入りを乞い~その善良な人柄と武術に対する愛を認めれられて弟子入りが許された。

韓其昌に学び始めてから本物の武術を知ったと言う王祺。
人々から「沱南侠」と呼ばれていた韓其昌は、形意拳単刀の達人「李存義」の弟子。又、梅花拳第十六代伝承者。梅花拳には千年以上の歴史がある。

梅花拳は、百本近くの杭の上で練功~初心者は五勢から学ぶ~
※以下~実践&指導の映像をお楽しみください。。。(((((((/-_-)/

《補足》
南京で就職してからも、北京へ出張する機会があれば韓其昌老師の元を訪れ、拳理や拳法の教えを乞い~南京に戻ってから練習~を数十年来続けた。

自身の練習以外、武術を愛する青年たちに梅花桩、形意拳、八卦掌などを指導している。
現在、南京、深圳などに多くの弟子がいる。

王祺老師が、いつも口にしているのは。。。
「韓老師は拳だけではなく、武術の精神と人に対する道理なども教えてくれた。私たちは、それを継承発展させていかなければならない。この善きものを途絶えさせてはならない」
by takeichi-3 | 2016-03-23 23:59 | 偉人たち | Comments(0)

少林十八銅人。。。

突然。。。「少林十八銅人」って、何だろう?と思ったりして、、、


十八羅漢から派生しているのでは???
少林銅人陣は、少林寺で著名な陣法の一つ~十八銅人で組成。
少林十八銅人の名は、小説や映画を通じて世に知れ渡っている。

「少林十八銅人」は、功夫が成っていない少林弟子の下山を防止⇒少林の名声を損なわすことがないよう寺門前に十八銅人を侍らせ、許可なく寺を出ようとする弟子を見張った⇒彼らを打ち負かした=功夫が成った~と判断された。また、敵の侵入をも防いだ。

彼らの修行と武芸のレベルは、一般を遥かに超えていたが~まだ仏までには至らず、通常は入定=銅像のように不動。任務を執行する時には人のように動いた。

少林寺に伝わっているのは、、、
十八銅铜人の起源は、唐朝の十八棍僧が唐王を救ったという伝説に由来しているとか。。。
少林寺武僧に救われた李世民(太宗)が皇帝となった後、武僧を原型とした銅像を寄贈した。








「周星馳」タイプ。。。


by takeichi-3 | 2016-03-15 23:58 | 偉人たち | Comments(0)

金庸。。。武侠小説家

今年、92歳になった武侠小説の第一人者「金庸」
誕生日祝いのメッセージを多くの俳優が伝えています。

「自分には武功が無い~インスピレーションが何処から来るのか説明ができない。天性かな」
と、語る金庸。。。



阿里巴巴のCEO「馬雲」も、、、
「男なら金庸の小説を読まなければ~想像力、ロマンス、義侠に溢れている。特に義侠~正しいことを行うという精神~阿里巴巴設立以降、その思想を取り入れている」とメッセージを贈っています。


2011年9月にブログに書いたものですが、、、

f0007580_2355274.jpg

「金庸」、知る人ぞ知る〜香港の武侠小説家です。
最新号の雑誌“環球人物”は金庸の特集。

その中、
「本を書いたのは、家族を養うお金を稼ぐため」
という、妹が語る兄の思い出が。。。

祖父は金融業を営んでいて、門が五つ、部屋数は90余り~大きな花園もあったという大宅門に暮らし、数千畝の田畑を貸して、豊かに暮らしていた子供時代。

邸宅内には無尽蔵に書物があり、本の虫となっていった金庸。
“荒江女侠”に魅せられ〜10歳の誕生日に贈られた本“クリスマスキャロル”の中に冷酷非情な守銭奴が慈愛に満ちた善人に生まれ変わるのという物語に感動。
この本は、今現在でも大切に所有しています。

父親には二人の妻がいて、
一人目の妻との間には5男2女が生まれ、その二番目の男の子が金庸。二番目の妻との間には3人の子供がいました。

金庸に大きな影響を与えた祖父は一族で最後の科挙合格者。
「丹陽教案=キリスト教宣教師たちに反発した丹陽の住民たちが教会に焼き打ちをかけた。」の勃発に際し、清政府から「首謀者を調べろ」という命を受けた祖父「査文清」は、首謀者二人をうまく逃亡させ、協力者たちにも丹陽を離れるように促し~その安全を確認した後に、首謀者はいないと報告。官職を退いた。

金庸が生まれて間もなく祖父は逝去。
1936年に小学校を卒業した金庸は中学に入るため、生家を離れる。
その後、1945年まで家に戻らず。
初めての里帰り。弟妹に水滸伝や封神演義などの物語を手足を動かしながら読み聞かせてくれた。

1950年。反動地主として鎮圧され死んでいった父。
残った家族十人の生活は逼迫。既に故郷を離れ、香港の新聞社で働いていた二哥(金庸)に縋った。

以降、金庸は義母弟妹の生活費や学費など全ての面倒をみてくれた。
「金庸が小説を書くのは、名声が欲しいから」と言う人もいるけれど、兄は家族を養うお金を得るために武侠小説を書き続けねばならなかったのです。

※武侠小説を書く下地となったともいえる生い立ちです。


最近の金庸原作ドラマ。。。「侠客行」


by takeichi-3 | 2016-03-13 23:55 | 偉人たち | Comments(0)

中国CCTV流行無限。。。太極名師曾乃梁

f0007580_23414158.jpg

今日。。。天津上空。
北京から移動した(?)スモッグのような~

一時、良くなっていたのに~(--)。。。


「3月5日に、この番組が中国中央テレビで放送されるんだけど、見る方法は?」
という問い合わせがあった~「曾乃梁老師」が出演する「流行無限」



実際の曾乃梁老師、映像の中と同じように親しみ易く穏やかです。
10月に実施される中国武術大学名家講堂では、42式太極拳、対練、入門推手を指導。
老師をサポートする曾衛紅老師(娘)は、鳥取に留学していたので、日本語で解説してくれます。
by takeichi-3 | 2016-03-08 23:53 | 偉人たち | Comments(0)

有能な弟子には旅をさせる⇒「下山」。。。呉図南

f0007580_23373561.jpg

中央に「孫禄堂」、その右が「楊少候」、更に右が「楊澄甫」~左は「呉鑑泉」
※被撮影者基準。。。

呉図南。。。
呉鑑泉&楊少候の二人に弟子入りしているのですが、、、
「何故?」を説明している文章があったので。。。(#^_^#)

両親ともに高年齢の時に生まれた子供だったせいか、身体が弱くて病気がちだった呉図南。
宮廷医を家に呼んで治療を行ない、それなりに丈夫にはなっていったが~健康体とはいえない様子に、「練功夫が良いだろう」と医師が進言~9歳の時、家長に連れられて武術館へ⇒この武術館は全佑老師が創設したものだったが、既に古希を迎えていて~その子、呉鑑泉が太極拳を指導をしていた。

呉鑑泉の下で8年学んだ後、楊少候に弟子入りして~楊氏太極拳小架を4年間学ぶ。
どうして、このような事が可能だったのか?

呉図南によると。。。
第一段階⇒老師の元で基本をマスターした後に「出徒(出師)」~「下山」と言われる第二段階の修行に⇒江湖(世間)の荒波に揉まれる⇒異なる門派の武術者たちと切磋琢磨⇒第二段階の学生は若いので、過信気味~他派の高手に打ち負かされることで、世の中には自分よりも強い人間がいると知り虚心が生まれる。同時に実戦経験も積める~弟子がこの段階に到ると、師匠は再度受け入れ~より高度(内面)な武芸を伝授し始める⇒同じ拳でも、異なる境界の拳。。。

呉図南の性格を見込んだ呉鑑泉は、彼を楊少候に推薦~楊家小架拳を学ぶことになる。

「柔化の拳」と呼ばれていた呉鑑泉老師の拳は守りが主体で相手を打つことは殆どなかったが、その脚を移動させることは誰にも出来なかった。それに対して、楊少候老師の拳は容赦なく攻撃的だったので、高手たちも敢えて手を出す者はいなかった。。。

呉図南は、そんな二人の老師に学んでいる。




★映画「道士下山」の始まり部分。。。
主人公が山から江湖(世間)に出された意味~映画では「食料不足~」的な解説もありましたが、、、
ようやく、別の意味が理解できました。


by takeichi-3 | 2016-02-20 23:59 | 偉人たち | Comments(0)