北京で太極拳

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甘鳳池。。。清代著名武術家

武術関係の書籍に「武術家甘鳳池:清初著名武術家」という言葉があって。。。
以前にYOU-TUBEにアップしたことがある名前だなぁ~と。。。




f0007580_23593454.jpg★甘鳳池
中国十大武術家の一人として、その名を挙げる人も多いのですが、、、
その生涯の影響もあってか伝人が少なく~現存している拳が少ないそうです。

清代に呉敬梓が著した長編小説「儒林外史」では、、、
甘鳳池は南京人。その名は四方に知れ渡っていた「江湖大侠」
幼い頃に父母を亡くした。勉強は嫌いだったが武術が大好きで、早くから侠客たちと交流~十代で「提牛撃虎的小英雄」と呼ばれるくらいに腕を上げて、江南地方で評判になっていた⇒「花拳総講法」を著している。


漢人は習武してはならないという時代~その決まりを破ったことで清復明の疑いをかけられ、清兵に追われて長江下流の蘇湖地方に隠れ住んでいた。

清人王友亮の「甘鳳池小伝」によると、八十歳を過ぎて、ようやく故郷に帰ったと。。。

当時、浙東には多くの拳家(張松溪、单思南、王来咸、黄百家等~明朝よりの内家拳家=雄江南)がいると聞いた甘鳳池は、師を求めて浙東へと。。。

浙江余姚城には内家拳家の黄百家がいた。
黄百家は、著名な思想家、史学家である黄宗羲の子⇒黄宗羲は、清兵が南下する際に明軍に協力~明が滅亡した後には、息子の百家に武術組織を作って抗清継続を要求。黄百家は、王来咸を師として~内家拳を取得。その功夫は精深だった。

ある日、県城高斗升の旅館に打虎小英雄の甘鳳池が来ていると聞いて、旅館を訪れ~甘鳳池と手を合わせた後、鳳池を弟子として内家拳等の武術を伝授。

三年後、黄百家は甘鳳池に、、、
「私の技術は全て伝承した。ここより八十里の大嵐山上には、各地より多くの英豪が集まっている。行仁義之師(徳をもった正しい行い⇒反清運動)~その一身武芸を、世の為人と為に~天地を揺るがす事業の為に行うように」と。。。

師の言葉通りに大嵐山上に向かった甘鳳池は、その地で一念和尚を師として少林拳を学び~行侠仗義の人生を歩むことになる。

★甘鳳池花拳。。。

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1928年に製作された≪大侠甘鳳池≫という無声映画がありますが、、、
1分50秒過ぎに出てくる刀の発想~スターウォーズの剣(泰斗セーバー)っぽいです。。。(#^_^#)


by takeichi-3 | 2016-02-04 23:54 | 偉人たち | Comments(0)

六小齢童。。。The 美猴王(孫悟空)

中国の芸能界で、美猴王(孫悟空)と言えば~この人⇒「六小齢童」
ドニー・イェンも「Monkey King」で孫悟空を演じた時、参考にしたと語っています。

2016年、申年を迎えるに際して製作されたペプシコーラのショートフィルム・・・
≪把楽带回家之猴王世家≫、主人公は「六小齢童」




f0007580_038326.jpg六小齢童の家は「猴王世家」。
曽祖父が猴戯を始め~父は六歳の時から曽祖父から指導を受け、「六歳童」という芸名を付けられ~兄&彼へと伝承された。

1976年6月に上海の高校を卒業後、浙江昆劇団芸校に入り武生を専攻。
後継者として期待されていた二番目の兄章金星は「小六齢童」という芸名で呼ばれていたが、不幸なことに、1966年に白血病に罹り夭逝。

1982年、彼が中国中央テレビの連続ドラマ「西遊記」で孫悟空を演じることになった時、父は亡き兄の芸名「小六」を逆にして、「六小齢童」という芸名を与えた~このドラマが放映と大評判に~国内外で最優秀賞を獲得。


★動画、「猴王世家」の内容。。。
「舞台に立った者は、そこから下りることはない」と父は言っていた。
章家は、四代に亘って「美猴王=孫悟空」を演じている。
曽祖父は、田舎で美猴王を演じ始めた~「活猴章」と呼ばれた。
祖父は、紹劇猴戯を広め~「賽活猴」と呼ばれた。
父は、六歳の時に学芸を始め~「六齢童」と名付けられ、自身の派を築き「南猴王」と呼ばれた。

私の世代、家には十一人の子供がいた。私は一番下。
二番目の兄は天賦の才があり、父の芸を継承~「小六齢童」と名付けられた。
その兄は、十七歳の時に白血病に罹って死んだ。
「兄さん、何処に行くの?」
「僕は、お前には分からない処に行かなけらばならない」
「どうしたら会えるの?」
「お前が美猴王になったら、会えるよ」
「ん。。。」
その時、兄の手から如意金箍棒が手渡されていたことなど、思いも及ばなかった。
彼に代わって、成し遂げられなかった道を進む。。。

1982年。テレビドラマに出演するに際して~
「あなたの息子には、表演者としての経験が無い。このドラマ版の西遊記は~」
と心配する監督。。。
「安心してください。彼は私の息子です。私が指導します」

“苦練七十二変。才能笑対八十二難”
演劇も人生も同じ。

1984年大晦日。春晩を見る余裕もなく撮影をしていた現場に届いた父からの手紙。
「息子よ、家族の皆がお前を気にかけているよ。監督から送ってもらった映像を見たが~動作には問題ないが、目に力が無い。美猴王の神韻が足りない。頑張って有神な眼を~」

それから十七年。停まることはなかった。
「舞台に立った者は、そこから下りることはない」
私たちの家族がそうです。
ある人は、私たちの事を猴王世家と呼びますが、猴戯は「章家」に属するものではなく中国の人々に属する物。

如意金箍棒は、一代一代と受け継がれ~観客たちが、喜びを家に持ち帰れるように。。。

★“苦練七十二変。才能笑対八十二難”
この動画が発表されてから、中国では西遊記哲学とも称され~
その解釈が取り沙汰されている六小齢童の言葉。
「しっかりとした学び&工夫を経験していれば、どんな難問も楽勝~♪」
みたいな感じ。。。かしら~( ' ' )~~~
by takeichi-3 | 2016-01-25 23:59 | 偉人たち | Comments(0)

李経梧。。。呉、陳、楊、孫&心意六合拳

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ポンポンと、弟子たちを跳ね飛ばしている動画が多い「李経梧」
北京で百貨店を営んでいて、老師たちに経済的援助も出来たことから~恵まれた環境で拳研究に没頭が出来たようです。



李経梧:(動画の翻訳ではありません)
1912年5月山東省掖県(莱州)生まれ。住環境が寒かったせいで、風湿症(リウマチ)に罹り~医者も手の施しようがなかったが、武術に出会って体質を改善した。

1927年より、孫楓秋&哈爾濱の劉子源より秘宗拳を学ぶ。
30年代の初めに北京に~趙鉄庵(呉)、陳発科(陳)、楊禹廷(呉)より太極拳を~胡耀貞より心意六合拳を~1941年、北平太庙(労働人民文化宮)太極拳研究会理事に。

建国後は、積極的に太極拳の普及に努め、24式&88式の編纂に協力。
50年代に、河北省の北戴河に移り、秘宗拳,陳式、呉式、心意六合拳を融合した経梧太極拳を創った。

27歳の時に弟子入りした趙鉄庵は呉式太極拳の伝承者⇒王茂斋と呉鑑泉より指導を受けていた。
その後、太庙で知り合った楊禹廷より、更に細かい架子&推手の指導を受け~その武徳にも惹かれて門下に⇒李経梧の技術を認めていた楊禹廷は、弟子というよりも研磨しあう同志として受け入れた。

王茂斋の息子「王子英」。。。
北京では一、二を争う推手の名手にも学ぶ。
王子英の性格は激しく、推手の時には手加減せず相手を飛ばしていたので、一般の腕前では相手が務まらなかった。又、父親より受け継いだ商いを営み~教拳をせずとも暮らしていける環境だったので生徒は少なく、専門家以外からの認知度は低かった。

40年代になって、陳式太極拳十七代伝承者「陳発科」が北京に伝拳の為にやって来ると、敬慕していた陳式拳の「纏絲劲」を見極めたく~陳発科を訪れ、陳式太極拳と推手を学ぶ。
そして、「胡耀貞」からは、心意六合拳を学ぶ。

陳発科は朴実な性格。河南訛りが酷くて、話していることが聞き取りづらかった。
技術は優れていたが、説明よりも実践~その手は重く、発力は強くて一般人には耐えられなかった⇒相手が出来た弟子は3~5人位。李経梧と孫楓秋もその中にいる。李経梧の体格⇒身長1m75cmの山東大漢で強壮~だったが、陳発科との推手では、二、三圏くらいで飛ばされていた。

★陳発科は、陳式太極拳中興の祖。
陳家溝以外では、認識と理解が乏しかった陳式太極拳を北京で伝拳することで発展へと導いた。
※陳発科物語⇒ http://takeichi3.exblog.jp/22156909/

50年代、国家体育協会の依頼により、楊式太極拳を主体とした制定拳、24式と88式太極拳の編纂に加わり~その際に、楊式太極拳の手法と劲路を研究~60年代になって、友人たちとの交流を通じて孫式太極拳の手法と劲路を研究。
by takeichi-3 | 2016-01-10 23:43 | 偉人たち | Comments(0)

董英傑の武徳。。。楊澄甫高弟

人格が尊敬されている太極拳名家の一人「董英傑」
教拳も真面目で、手を抜かなたったそうですが、、、
その長男、董虎峰。。。



楊澄甫高弟の一人「董英傑」
高潔な人柄で、外でも家でも他の欠点を口にすることはなく、常に人の長所を口にしていたそうです。

ある講習会で、参加者の一人が~
「同じ套路なのに、前に他の老師が教えた要求はこうだった。これは正しいのか間違っているのか?」
と口にした時。。。
「私が、その老師の要求に対してあれこれ言う必要があるのだろうか。私は自分が正しいと思っていることをあなたに教えている。その老師の考えも、きっと同じだろう。だから、どちらも正しい」

董英傑が、師の楊澄甫に随いて、武術が盛んで多くの高手がいる広州に行った時。。。
ある高官が太極拳を見て、「あんなに柔らかくて、まったりとした動きで相手を倒せるのか~」と、、、
腕試しを挑んできた。

楊澄甫は、董英傑に、、、
「あの方の相手をしてやってくれ。但し、勝つことも負けることもならない」
結果、どちらの面目も潰れることは無く~高官は、楊澄甫に董英傑に拳を学びたいと申し出た。

f0007580_02472.gif常日頃から、和やかで、慎ましい生活をしていた董英傑老師の逸話、少ないのですが、
今日、新たに見つけた話など。。。
by takeichi-3 | 2016-01-04 09:07 | 偉人たち | Comments(0)

楊禹廷老師の想い出②。。。李秉慈

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今日も楊禹廷老師。。。
色々な中国書籍の中で描かれている楊禹廷老師が好印象だったので、、、
今日は、弟子の李秉慈(呉式太極拳研究会会長)が語った想い出など。


北京、中山公園(故宮の西側に隣接)。。。
楊禹廷老師が座っていたという東屋の姿も見えます。。。(^^)v



北京の、武術とは無縁の家庭に生まれた私が習武を始めたのは健康強身が目的。
幼い頃から虚弱体質。12歳の時に吐血してから、更に弱くなり~ちょっと涼しくなれば風邪を引いて吐血という感じで、色々な治療を受けたが好転せず、学校にも行けなくなった。

1946年の夏、十六歳の夏の初めに太極拳を学ぶようになった。
父の友人が、
「子供が、毎日家に閉じ籠っているなんて良くない。身体を動かさなければ。早朝の鍛錬健身に役立つ」
と~それから、父に付き添われて、毎日、近所の太庙(労働人民文化宮)を2.3時間歩くようになった。疲れると、腰を下ろして練拳している人たちを見ていた。

当時、太庙の古松柏付近で多くの人が練武していた。太極拳、八卦掌、形意拳など~ある時、一人の老先生が話しかけてきた。

「あなたたちの様子が気になって、久しく見ていたんだが~子供の具合が悪いのか?」
父が私の病状を告げると、
「子供に拳を練習させてみないか?丈夫になるかもしれない」

その時は、拳を習うにはどうしたらいいのか、拝師をしなければならないのか~とか、何も分からなかったが~老先生が言うには、
「太庙太極拳研究会」という太極拳組織が運営している。年会費は2~3元。入会すれば、毎日、ここで練拳出来る。公園の入場料もいらないし」
というので、入会することにした。

これより、毎日、ここで練拳~
この研究会は、政府機関によって運営されている組織で、太極拳は楊禹廷老師が担当していた。

楊禹廷老師に学ぶ人は多く、毎日80~90人の人が参加していた。
太庙太極拳拳研究会以外の北京にあった大きな組織は中山公園内の行健会だったが、行健会は、武術だではなく、テニスなども教えていた。

学拳者が多かったこともあり、学び初めの頃は兄弟子たちから指導を受けていた。楊老師からは~老師に、時間が出来た時にだけ~要点を指摘してもらえた。こんな感じで、一年半が過ぎた頃に拜師。

練拳を通して、身体は強くなってきて、病気に罹ることも少なくなり~1958年には、病院の検査でも問題が見つからなくなっていた。

1948年10月、北京解放間際の太庙は解放軍に占領されて物資置き場となってしまい~私たちは、中山公園に移動~来今雨軒近くの十字亭に落ち着いた。

楊老師の人柄は穏やかで親しみやすく、寛大で謙虚、人をけなしたり争ったりすることが無かった。
若い頃には、弾腿、黒虎拳、長拳、形意拳、八卦掌等を学んでいたが、三十歳頃に、王茂斋老師より太極拳を学ぶようになり~以降、太極拳に専念して一代大家となった。

私は、楊老師から教えを乞うこと数十年。太極拳以外に、四門刀、六合刀、六合拳等多くを学んだが~最終的には、太極拳、剣、刀、杆と推手を専門に研究している。

当時、年齢やレベルが異なる学拳者たちを指導する楊老師は大変だったと思う。
一日のうち、最初に来るのは勤労者たち。午前6時頃にやって来て、一時間ほど学拳してから出勤~二番目は、私のように働いていない人たちが8時頃に来て~9時以降には、高齢者たち~10時を過ぎた頃から、人が減り始め~以降、老師に時間がある時には、太極拳の講義と推手~老師は、毎日、午前6時には公園にやって来て、生徒を送り出し~正午になってから、ようやく帰宅。

楊老師の教拳の方法は、「口授身伝」
先ずは動作を覚えさせてから、ゆっくりと用法と劲力を教える。
当時、学拳に際して、拳譜等の資料は無く~拳式(勢)の名前さえ知らずに、老師の動きを真似していた。学び始めてから三、五年経って~兄弟子が動作の名前を尋ねた時、老師は始めてその動作名称を口にした。

拳架套路を学び終わると推手。それから、刀、剣、杆等の器械套路と、学ぶ順番が決まっていた。
毎日、公園に来ると、最初に拳架、続けて器械、推手という練習を繰り返していた。

年齢が若かった私への基本功(柔軟、踢腿等)要求は厳しかったが、高齢者には要求することなく、直接套路を指導していた。

学太極拳は、套路動作を覚えただけで終わらない。動作の用法も理解しなければならない。
1946年から1966年の間~旧悪として習武が禁止されていた文化大革命時にも楊老師の指導を受け続けた~動作の要領、規範動作、器械、推手、二十年以上、たゆまず磨練して技術を受け継いだ。幼い頃には病弱だったのに、八十を超えた今では、健康で足腰もしっかり~楊老師と太極拳に感謝している。

楊老師は、徳が高くて、芸(武)に精通している~と、北京武術界で称賛されていた。
その太極拳は、軽灵柔滑、善于柔化~弟子たちに推手を講義する時、「手を合わせた時には軽く~“軽”という条件が整っていなければ相手の劲力を听けない。重いと听劲能力が落ちる」⇒「重手听力差、軽手敏捷」
と教えていた。

ある人は、、、
「楊禹廷老師との推手は、まるで絹に触れているような感触~柔らかく、なめらかに滑っていく」
と述べている。

楊老師は、武徳についても説いていた。
推手の時、軽はずみに力を出して、相手に恥をかかせないように~相手がバランスを崩した、もしくは安定しない、で十分~自分の功夫がまだまだだと自覚して、引き下がてくれれば十分⇒「点到為止」

当時の推手は、技術を研究する為に互いに切磋琢磨していた。
力比べではない~勝ち負けや技術の高低を決めるのではなく、練功を通して、自身のバランス~相手の力の受け方~躱し方などの変化を体得するのを目的としていた~現在の競技用推手とは目的が異なる。

当時、公園での教拳には面倒が生じることもあった~
老師の名声を伝え聞いて、腕試しを挑んで来る者がいたり~というような。けれど、楊老師がそのような面倒に巻き込まれたことはなかった。

二つほど、小さな出来事があった。
中山公園で練拳している時、一人の外地人(北京以外の人)がやって来て、、、
「この十日ほど、あなたの拳を見ていたが~教え方が素晴らしいので、習いたい~」
「練拳経験は?」
「二十年ほど」
「何を?」
「楊式」
これを聞いた楊老師は、、、
「私が教えているのは呉式。今から私に随いて習っても、今ほどの力はつかない。あっちで、楊澄甫の弟子で功夫に優れている崔毅士老師が教えている」
と、婉曲に拒絶した。
私は、生徒が増えるのに~と思ったが、、、
「二十年近くも学んだということは、それなりの功夫があるはず。それを改拳させるなんて、勿体ないだろう?」

そして、もう一つ。。。
私と、そう年が変わらない、頑固で気の強い性格をした師兄がいて~
推手練習時、発力を使って相手を飛ばしたがっていて~楊老師から五年ほど学んだ後、太極拳は自分には合わないと考え始め、同じく、中山公園で形意拳を教えたいた陳子江老師から拳を学びたいと考え~こっそりと、陳子江老師の下で形意拳を習い始めた。

数日間、陳子江老師に学んだ後~隠し事をしたまま練習するのはよくないと、陳老師に告白。
彼が楊老師の弟子だと知った陳老師は、「楊老師に次第を告げ、老師から一筆貰って来たら教えよう」と、、、

仕方なく、師兄が楊老師に自分の思いと陳老師の言葉を伝えると、、、
「一筆は必要ない。私が一緒に行って直接頼んであげよう」
と笑いながら言い~即座に、師兄を連れて陳老師の元へと向かい~
「師兄。彼を指導してくれないか。師兄と私では教え方が違って~彼は師兄の拳を学びたいらしい」
という出来事もあった。

この二つの出来事で、楊老師の心の広さを実感させられた。

私自身、現在は太極拳を専業としている。
現在の太極拳、大きく変化している。以前は女性の練拳者は少なかったが、女性の方が多くなっている。若者が多かったのが、高齢者の方が多くなり~推手練習が少なくなったり~

私の教え方も楊老師とは違う。
先ずは、套路を教え~その過程で、套路に出てくる式(勢=架)を利用して、基本功と基本用法など~中身の無い套路とはならないように、糾正、説明をしている~これらの知識が無いと、レベルアップが出来ない。

太極拳を練習する時には、「何故、そうしなければならないのか?」を理解しなければならない。
by takeichi-3 | 2015-12-27 23:58 | 偉人たち | Comments(0)

北京、中山公園。。。楊禹廷老師の想い出①

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北京、中山公園での楊禹廷老師(呉式)&弟子たちの集合写真。
こんな写真を見たら、出自が気になって~調べたら。。。
北京体育大学の「劉敬儒(形意&八卦掌)老師」が楊禹廷老師生誕115年記念に寄せた、想い出話に添えられていたもの。。。

1950年から60年代にかけて、毛沢東主席の「発展体育運動、増強人民体質」という方針の下、中国武術運動は発展し始め~毎早朝、天壇公園はもとより、東単公園、歴史博物館、故宫付近など~空き地があれば、学武のグループが見かけられた。

中でも、中山公園は賑やかだった。教拳する者が多かったというだけが理由ではなく~著名な武術家たちが公園内で教拳授徒していたので、レベルも高かった。

週末になると、ここを目指して、武術名家や愛好家が遠方からやって来て~
公園は、武練拳者たちにとって天国のような場所であると同時に、北京武術界の交流の中心となっていた。

正面から入って、東寄りに向かうと~劉志剛先生の八卦掌~日曜日には、韓其昌先生が北京大学の生徒と共にやって来て梅花桩の練習~北面では、崔毅士先生の楊式太極拳。午前十時前後になると、人々は、崔毅士老師が弟子たちを相手に推手を指導している姿を見ることが出来た~時には、形意拳の陳子江先生が授拳していることもあった。

東にある「今来雨軒(茶館)」近くの東屋周辺では、楊禹廷老師の呉式。授拳のかたわら~楊老師は、訪れて来た拳友たちと語ったり、優雅な雰囲気が漂っていた。

更に東に向かうと、駱興武老師が形意拳と八卦掌を教えていた。;
正門から入って西方向に~曲折する長廊を辿ると馬月清先生が八十八式太極拳を~孫風邪秋先生の陳式太極拳。孫先生の大捋は非常に功夫があり、多くの人を惹きつけていた。
北側の河沿いでは王芗斋先生が教えていた。

このように、中山公園では、至る処で練武術的人を見ることが出来た。

日曜日になると、私は、必ず中山公園に行った。
先ず、駱興武老師の処で形意拳と八卦掌の指導を受け~練習後には、駱老師に随って楊老師の所へ行き、生徒に推手を教えている様子を見ていた。

毎回、駱老師の姿が見えるや否や、東屋に座っていた楊老師は立ちあがって迎えに出て、座るようにと勧め~両手を添えて煙草を差し出し~談笑が始まる。

駱老師は、「楊老師の振る舞いを学ばなければならい」と言っていた。
確かに、駱老師は、せっかちで怒りっぽかったが~楊老師の影響で、感情の起伏も穏やかに、親しみやすくなっていった。

楊老師の処では、徐致一先生、郭古民先生、長陳雲先生~それに呉図南先生などの姿を見ることもあった。

ある朝、天津の呉孟侠先生がやって来て、怒気のある口調で「誰がXXXだ?」と老師に尋ねた~「XXXが、彼の弟子が俺を打ち負かすといったそうだが~どんな風に打ち負かすのか、自ら確かめに来た」

面倒なことに、XXXもやって来て~
「お前がXXXか?!お前の弟子が俺を打ち負かすのか?」
XXX先生は、言葉も返せず~顔を真っ赤にしていた。

これを見た楊老師は、急いで間に入って~双方に礼を尽くしながら、「若い者の言ったこと、根拠があるわけではない。些細なことで汚点を残すことなどしないで~仲良くやっていこうじゃないか」と言い~その言葉に双方納得して、握手を交わした。

一般の生徒が練習を終えて帰った後、近しい弟子たちに深い内容を授拳。
生徒たちは、聞きながらノートを取っていた。老師の教え方は生徒以上に真面目だった。動作だけではなく、拳理も~一式(勢)を細分化して、動作の方向や角度、劲力などを非常に明確に説明していた。

私は、いつも傍らで聞いていて~多くの拳理を学んだ。楊老師の講義は、学びというよりも喜びのお裾分けのようなものだった。

楊老師と生徒が推手する様子~どれだけ羨ましかったか。。。
ある時、楊老師と手を合わせる機会があり、初めて、真の「不丢不頂」~何が真の太極推手なのかを知った。楊老師は発力で弟子たちを飛ばしたりはしなかった。「足が浮けば、それで分かるだろう」

私の老師、張占魁の弟子裘雅和老師は、
「楊老師は、私がいつも偷拳しているのを知らない。楊老師は、本当に懂劲懂拳だ。素晴らし拳だ」
と言っていた。
by takeichi-3 | 2015-12-26 23:58 | 偉人たち | Comments(0)

中国功夫史。。。速度編

中国功夫映画の中、、、スピードを取り上げています。
身体の動きを固定がちにして攻撃のスピードをアピール~ドニー・イェンが出演した映画の幾つかは早回しをしている~音楽と効果音を使って、より早く激しい印象を観客に与える~等々。。。




アメリカのコマーシャル。。。


by takeichi-3 | 2015-12-25 23:51 | 偉人たち | Comments(0)

崔毅士。。。楊澄甫の十大弟子

楊式太極拳第四代伝承者「崔毅士」の娘「崔秀辰」と「張勇涛老師」母子の推手。
第五代伝承者「崔仲三老師(早逝した父親は武術家とはならなかった)」の伯母にあたり、仲三老師自身も手ほどきを受けています。




≪崔毅士≫
楊澄甫の大架を丁寧に受け継いでいる姿。。。



楊澄甫十大弟子の一人。
1892年河北省任县生まれ。
幼い頃より、父親の影響で武術を愛し~刀、棍、石鎖などに長け~隣村の老拳師に三皇炮捶を学んだ後、老師の紹介で李香遠に開合太極拳を学ぶ。

1909年、北京に向かい~建築材料を扱う店を開き、憧れの楊澄甫の門下となり、苦練に耐えて拳理を研鑽~入室弟子となる。

純朴善良、実直、豪放磊落、忠実で情に厚い性格。
楊家の武術に精通、拳はもとより、刀、剣、大杆(槍)、推手など、楊式大師の真髄を受け継いでいた。
ことのほか推手を得意としていて、化劲発劲、出手綿軟、柔中有剛、軽霊機敏、虚実分明、听之至霊、動之至微、刮之至長、発之至驟~相手は、我知らず~いつの間にか飛ばされているという技術の持ち主。

楊澄甫の南下に伴い、南京、上海、杭州、漢口等で拳を広め~
楊澄甫亡き後も、抗戦の八年間は南方での授拳を続け、西安に「至強太極拳社」を設立。抗戦に勝利してから北京に戻り、店の経営は別人に管理させて~中山公園で授拳を始めるなど楊家拳の普及に没頭~北京永年太極拳社を設立。

楊澄甫の教え、「以明規矩而守規矩、脱規矩而守規矩」という先人たちの教えと練習法を守り、家族、弟子の区別なく厳しく指導。

張勇涛老師によると、、、
基本練習~搂膝拗歩で一週するのに30~50回必要な距離を十周して~それから、野馬分鬣で十周~祖父は、それをジッと見ていて~規矩が乱れている部分を容赦なく杖で打ち指導していた。
by takeichi-3 | 2015-12-20 23:57 | 偉人たち | Comments(0)

中国武術の今後。。。呉彬&曾乃梁

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中国、長沙で~世界記録を更新したという太極拳。
401人の妊婦の皆さんによる太極拳表演だそうです。。。(((((^^;


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中国武術、少しずつ、少しずつ、、、
半来の武術、競技、健康、アートなどの区切りが明確になり始めていますが、、、
呉彬、曾乃梁~著名な二人の老師が、国際論武の会場で語った言葉など。



f0007580_005921.jpg≪呉彬=北京什刹海武术学校のコーチ≫
私は武術コーチの出身ですが、コーチの立場から。。。
先ずは、ジェット・リーや呉京のような素質のある選手を見つけることが大事です。刻苦に耐えられるか?基本功のレベルは?飲み込みが早いか?などなどの条件に適う素材を捜すのは簡単ではありません。
コーチたちは、自分の生徒に良い訓練を受けさせたいと願っています。良い訓練とは?大会で良い成績を取らせるような訓練です。不断の訓練を通して、選手たちに、武術の要求、表演の要求、規則に則った要求を鑑みた訓練を施します。現在の大会(全国大会や国際大会)に参加するには、コーチたちは。動作の規格、動作の質、動作の難度、表現能力などを見極め、要求を満たすような指導に当たらなければなりません。


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≪曾乃梁=福建武術隊コーチ≫
発展が無ければ、武術の命は途絶えてしまいます。伝統継承が根になって、新しい発展が生まれます。武術体操、太極拳体操、太極拳ダンス等は肯定されるべきです。幼子が歩き出した時、それを笑う人はいません。まだ始まったばかり~だんだんと遠くへ、しっかりと歩むことが出来るようになります。どんな形式の武術であれ、学習者が増えることで関心が集まり、徐々にレベルも上がっていきます。初めはダンスや体操のようであっても、続けているうちに入門道へと導かれていきます。レベルが上がるにつれて功能や功法の意義が理解出来るようになり、練習に対する意識も変化します。
by takeichi-3 | 2015-11-10 23:56 | 偉人たち | Comments(0)

王師父との出会い。。。by劉偉

中華武術に掲載されていた、劉偉老師と王老師(写真右)故事「出会いと別れ」の出会いの部分。

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二人が初めて会ったのは1985年の春。
中山公園の来今雨軒。ここは、劉偉が李秉慈老師に呉式太極拳を学んでいた場所。

ここを通りがかった、帽子を被った青い服の男は足を止め~そっと訓練の様子を見ていた。

昼近く、訓練が終わろうとする頃になって、李老師に近寄ると~「この拳は素晴らしい。あなたの教え方も最高だ」と声をかけた。

李秉慈老師は、既に太極拳名家として知られていて~その言葉を聞いても喜んだりはしなかった。
男は続けて~「この呉式の訓練は良いね」
拳式を言い当てた~武術家に違いないと判断した李老師は、男と語り始めた。
王「若い頃、ここで訓練していたことがある」
李「あなたに見覚えはないが~何を訓練していた?」
王「形意拳~駱興武老師のところで~」
この会話で、男は「王世祥」という名で、形意拳名家駱興武老師の大弟子。1951年から1962年の間、駱興武老師に髄いて学んでいたことが分かった。

李老師の師父楊禹廷と王世王老師の師父駱興武の関係は良好で、、、
1950年代~二人は共に中山公園で教拳していた。

この時、劉偉は駱興武の息子駱大成に形意拳を学んでいて~
李老師は「見ず知らの人ではない。劉偉、この人はお前の師大爺だ」と。。。

当時、王世祥は春節休暇になると山西から北京に戻ってきていた。
この後、何度か顔を合わせる機会があり~李老師のとりなしにより、王世祥は駱興武の息子大成と三十年ぶりに再会~その場面は、周囲の人を感動させた。

5月になって、劉偉は太原(山西省)に全国武術太極推手散打大会に参加。
その際、「師大爺は?」と、、、王世祥が働く自動車工場を訪れた。
突然現れた劉偉に親しみを込めて「何だって此処に?」と、、、

それから、王老師と共に彼の宿舎に。
王「お前が学んでいる形意拳は形だけ。中身(功夫)を考えなければ」
当時、まだ17~8歳だった劉偉には、王老師の言葉の意味が分からなかった。宿舎に着いてから~
王「この動作を見てみろ」

一間だけの単身用宿舎。
王老師は窓辺に立ち、劉偉は門口に立ち~ほんの一瞬で、王老師は劉偉の傍らに。
当時の様子を思い浮かべながら~“王老師が、どんな風に傍らまで来たのか?”を考えるに~形意拳十二形の“燕形抄水”を使って瞬間移動~当時、王老師は54歳だった。

この晩、劉偉は一睡もできなかった。
暖かく親しみやすさがある王老師に武術家特有の傲気は感じられず~
多くの武人を見てきたが、初めて、こんな武功を目にした。子供のような敏捷性をもった、年齢を感じさせない動き~劉偉は、王老師に学びたいと思った。

翌朝、王老師は自分の弟子たちを呼び寄せて劉偉と共に練拳させた。
王「わざわざ訪ねて来てくれたんだし、無駄足にさせたくない~八卦戦身槍を教えよう」
手元に槍が無かったので、互いに掃除用具に使われている棒を手に訓練開始~劉偉は、その朝のうちに套路を取得。

北京に戻った劉偉は、その槍を練り続けた。
練習をこなすにつれて内面の充実が増し~この套路で参加した全国大会では幾度となく金メダルを獲得。後には、東単武術館の形意拳班でもこの槍を教えるようになった。

数年後、劉偉以外の者が、この槍を練習しているのを見た王老師は、「この槍は教えてはならないものだ」という言い方をした。

王老師は武術を尊重、信仰していて~伝承はしても伝播(誰にでも広く伝える)はしないという考えを持っていた。

王「教えるにしても、学ぶにしても、先ず武術を尊重~自分が完璧に取得した後に、他へと伝えなければならない。いい加減(中途半端な知識=質より量)な教え方をしてはならない」

王「師父がどのように教えたか。自分は、それをどう伝えるか。師父を超えたら(その技術を完璧にマスターしたら)、それに自分の技術を加味して~改変を加えていかなければならない~師父の教えを完璧に身につけることが先決~その後に加えられた改変なら、真の改良となる~中途半端な技術で改変しても師父を超えることはできない」

王「今、私はお前に教えているが、もし、おまえの技術が勝って私が敵わなくなる時がきたら、もっと優れた老師を紹介しよう。もし、探し出せなかったら~二人で一緒に研究し続けていこう」

1988年に王老師が北京に戻ってきてから、劉偉は、毎日王老師のもとに通った。
しかし、王老師は、劉偉には余り関りたくない様子だった。
思うに、老師から教わった槍(駱興武より伝わった)を以て全国大会に出場して優勝~それを断りもなく勝手に武術館で教え始めたりしたので、劉偉は駱興武の伝承人だと世間から認識されるのを慮っていたのかもしれない~まだ若かった劉偉は、そこのところが分からず、ただ、ただ、王老師から学びたいという気持ちのみだった。

劉「師大爺、来ました。」
王「ん。。。」
毎日、王老師の口から出るのは、この一言だけ。

劉「ある時は、私の姿を見るや否や指導を止めて将棋を見に行ってしまう」
こんな日々が一年近く続き~それでも劉偉は、毎日、雨の日も風の日も午後四時~五時から暗くなるまで練習を続け~

周囲が暗くなり始めると、王老師はさっさと帰り支度を始め~それを見た劉偉も慌てて支度~
互いに自転車に乗って、無言のまま老師が住む胡同入口まで送り~
別れ際に「師大爺、さようなら」と告げると、「ん。。。」と一言、、、

どんなに天気が悪くても、劉偉は毎日通い続けた。
ある時、劉偉以外の弟子が一人も来ない日があった。王老師は、やはり、将棋を見ていた。
劉偉は樹木の周りを歩き~八卦掌の練習~負荷をかけるために砂袋ベストを着て&脚にも砂袋を巻いて~王老師からは無視されたまま二時間~空が暗くなろうかという頃になっても止めずに歩き続けていると~ようやく王老師がやってきて、「ま、合格というところだな」

劉「さりげない口調で発せられた言葉だったが、胸が熱くなり涙がこぼれそうになった。最近は、学芸(武)は簡単ではないという感触が失われてきている」
王「お前は本当に武術を愛しているんだね。だったら、教えよう」

この日より、套路、手法、操功、拳理に至るまで指導を受け~学ぶにつれ、劉偉の王老師の功夫と人品への敬服は増していった。

ある日、王老師が木の幹に背中を密着させているところを見た劉偉が、笑いながら「何をしているんですか?」と尋ると、「足元を見てみろ」~驚いたことに、王老師の両足は地面から浮いていて~身体が木に引っ掛かっているような状態⇒後ろ向きに両腕を木の幹に巻きつけて身体を支えていた~正面向きで行っても大変な動作なのに~既に60歳を過ぎていたのに。。。

王「練武は形の追求ばかりではダメだ。肉体に数百斤の力量が存在しなければ~手腕の力量が小さいと役に立たない。足腰に力量が無くては戦えない~友達同士の交流や武術ごっこの範疇~」


f0007580_8335882.jpg★宗維潔老師に連れられ~王老師が教拳している宣武芸公園に初めて行った時。劈拳で軽く二の腕を推されただけなのに、その力は内臓まで達して~震動。“凄い。これが本物!殺傷力がある!”と実感させられた威力の源。

★くる日も、くる日も、氷点下が続いた2009年冬。
マイナス10度以下の気温でも、通ってくる生徒が一人でもいれば~老師は、その傍らでタバコをくゆらせながら、付き添い。

★本当に、お世話になりました。。。 
当時の教えを今でも追求しながら、励んでいます。。。(--)!
by takeichi-3 | 2015-09-16 23:58 | 偉人たち | Comments(0)