北京で太極拳

takeichi3.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

カテゴリ:偉人たち( 113 )

于承惠。。。中国最後の剣聖

シリーズ化している「中国功夫史」が、7月4日に亡くなった功夫俳優「于承惠」を取り上げています。
映画に参加していたとはいえ、武侠の風格を備えた武林高手~中国最後の剣聖と。。。心意六合拳も習得。



ジェット・リーを有名にした少林寺に敵役で出演したのが映画デビューのきっかけ。。。
その後、少林小子~少林寺に反発する武当派、南北少林寺(阿羅漢=ジェット・リーの北功と胡堅強の南功のいずれもが秀逸だった)~劉家良が香港人対応の報酬を受け取っていた⇒中国人待遇のジェット・リーのギャラは少ない~憤慨したジェット・リーは、その後、香港映画へと進出。

同じ蟷螂門の「于海」との棍、剣、徒手での戦いは真に迫っていた。
黄河大侠~唐末の物語~酔剣の評価高いです。

以降、出演作の数々が続きます。。。((((((/-_-)/
by takeichi-3 | 2015-08-08 23:57 | 偉人たち | Comments(0)

楊澄甫の子≪楊振鋒≫。。。

楊澄甫の子≪楊振鋒≫、九十歳の誕生祝いに十六カ国から駆け付けた数百人の弟子たち。




1992年に撮影された映像ですが、楊式の特徴がよく出ています。



≪楊振鋒≫
1926年に、楊式太極拳創始人楊露禅の曾孫として北京に生まれる。一代宗師楊澄甫の第三子。

武術家という環境~自然に、幼い頃から太極拳を始めていた。
1936年、父親が亡くなった後、母と共に一族の故郷永年広府鎮に戻り、母親の指導の下、兄弟たち共に刻苦練拳。

1937年抗日戦争~日本軍の占領を逃れて南方へと避難。
全国解放後は、北京の経理学校で学び~山西省陽泉鉱務局工作などで働きながら、余暇を利用して楊式太極拳を広めていた。

1961年、上海で楊式太極拳を表演。その規範のある動きが話題に⇒父親の楊澄甫の遺風を備えている⇒姿勢及動作は楊家の軽松自然、気派大方といった特徴を維持している。

1980年代以降の中国武術事業の発展に伴い、1982年に山西省楊式太極拳協会を設立。


「斜飛式」の説明、分かり易いです。。。


by takeichi-3 | 2015-08-05 23:58 | 偉人たち | Comments(0)

回憶。。。山西形意拳

毎月送られてくる≪中華武術≫

f0007580_23495823.jpg今月号は太極拳関係の記事が多いと雑誌をめくっていたら~
4ページに亘る王世祥老師を追悼する劉偉老師の文章が、、、
臥虎隠龍、時代の流れにうまく乗れず、北京の隠棲高手として終わった生涯でしたが~全国的に存在が伝わりました。。。(T_T)

宗維潔老師が、形意拳を習うなら~と紹介してくれた時、、、
「私が知っている老師の中で、一番の武徳を備えた高手」と~

亡くなった後に、師母が語ったという。。。
「子供や孫が武術を継続しなかったことが心残りだったかもしれない。私が邪魔したの。子供たちには生活の苦労をさせたくなかったから。練習でヘトヘトになって~家よりも師父。家族が食べていけるギリギリのお金を家に残すだけで~」
f0007580_2355766.jpgf0007580_23552585.jpg


山西形意拳。。。




王世祥老師&師父≪駱興武≫とのツーショット。今頃、二人で推手をしているのかも。。。
(#^_^#)
f0007580_010283.jpg


形意拳対練。。。


by takeichi-3 | 2015-07-24 23:58 | 偉人たち | Comments(0)

麦宝婵(Bow Sim Mark)⇒ドニー・イェン母

ドニー・イェンの母親、麦宝婵(Bow Sim Mark)の「太極龍扇」。。。



中国広東省生まれ。小さい頃から活発で~長拳と剣を学び、その才能を傅永輝(父親は北方五虎の一人、 八卦大師傅振嵩~南京中央国術館創始人)に見出された。

傅派は、内家功夫(太極拳、 八卦掌、形意拳)と武当剣に優れていて~
傅永輝は、「私の技術の全てを取得した伝承者」 と麦宝婵を褒め称えている。

70年代に移民としてボストンに渡った後、中国本土の武術の変革(実戦ではなく、健康運動としての規定拳が普及し始める)を捉え、李天麒より太極拳、太極剣、推手の指導を受け~ボストン大学やハーバード大学でコーチを務めた。


話題になった舞台表演≪陽関曲:Song of Yang Guan≫
武当剣と酔剣がミックスされた動き。。。




二十四式太極拳紹介~のような。。。( ‘ ‘ )???


by takeichi-3 | 2015-06-29 23:56 | 偉人たち | Comments(0)

王宝強。。。北漂から生まれた明星

明日も、朝から忙しいというのに~王宝強物語にハマってしまいました。。。(((((^^;
上海映画祭、ジャッキー・チェン、アクション映画ウィークで、新人賞を受けたり~話題急騰の人物。



北京。。。
エキストラとして出演~スターダムを駆け上るという夢を抱いて多くの人が集まりますが、一体、どれだけの人が夢を実現できるのでしょうか?

唯一≪王宝強≫が、その伝奇の主人公に。

最近、話題になる映画に出演している王宝強。
彼の両親ともに畑を耕している農民。映画関係の学校出身ではなく~学校に通ったのは9年だけ。
背が低くて、その風采も田舎出身という印象~芸能界で成功するとは思えない素材。

馮小剛監督の≪天下無賊≫が、王宝強の運命を大きく変えた。
映画の中、純朴で善良な出稼ぎ農民「傻根=間抜け」を演じた彼を中心に、大スターたちが巻き込まれて物語が展開~観客たちの視線を集めた。

馮小剛は、「この映画の成功は、傻根を誰が演じるかにかかっている」と語っていたが、この映画で成功を収めた王宝強は、スターへの道を歩き始めた。

馮小剛は、どうして王宝強を選んだのか。。。
彼の人気は~意外なことなのか?遡ってみましょう。

王宝強、八歳の時の夢。。。
1985年、河北省の先祖代々農民の家に生まれた王宝強。
本来なら、父親と同じように、日の出とともに働き、日の入りと共に休むという農民の生涯を送るはずだったのに~一本の映画が彼に夢を抱かせる⇒村で上映された≪少林寺≫

スクリーンの中に広がる、自分の周囲とは異なる景色~それに魅了されて自分の命運を変える選択を。

「映画を見て、即座に、村にはいたくないと思った。一代一代、ず~っと同じ。農作業の一生」
「一緒に少林寺に行こうと冗談で言ったけど~それが真実になったby従兄」

少林寺に行けば、映画に出られて~スターになれると思った。
貧しい父母に楽をさせたいとも思ったが~父母の反対に遭ったが、、、
粘り続けて、同意させた。

1992年、八歳の時に故郷を離れ~少林寺に。
少林寺では武僧団に選抜され~主に酔剣を表演していた。
表演後、観客からの拍手が嬉しかった。
当時、多くの写真を撮っては、周囲に「この写真を大切に~いつか大スターになるから」と渡していた。

三年後、この楽しい日々が、、、
「少林寺で映画が撮影される時、既に決まっている出演者たちがやって来る。少林寺の武僧団員が出演するわけではない」という一言に夢が砕かれ、十四歳で故郷へと戻ったが~再び、家族や親族を驚かせる発言をする~「北京に行って、映画に出る」

1999年、三か月ほどのアルバイトで稼いだ二百元を手に北京へ。
一人で北京にやって来た王宝強は、「北京電影制片廠に行ってみたら」と言われ、、、

門前には多くのエキストラ希望者が待機していて、「ここで映画を撮影しているの?」って聞いたら、「そう、そう」って~夢の近くにいる気がして、凄く興奮した。

折よく、エキストラが不足している映画があって、彼もその中に加えられ~
初めてカメラの前に立った~大袍を着て、街を歩くだけだったけど嬉しかった~十四歳、初めて映画に出演、20元を手にして~自分の夢は早くも叶えられると思った~その後、多くのエキストラをこなした。

台詞のある役や顔がハッキリ映る役に付きたかったが、台詞のないエキストラの仕事でさえも十数日に一回あるかないか~殆どの時間が待つことに費やされ、生活は逼迫していった~大晦日、何も食べずに夜の十二時まで~飢え死にしそうなくらいお腹が空いて、お金が無くて、一元の饅頭を五個ツケで買って一気に水を飲みながら食べ~辛くて、布団の中で泣いた。

それから暫くして、門前に並ぶのを止めて肉体労働を始めたけどどうにもならなくなって、、、
故郷に「二百元を~」と電話をかけたら、父親から三百元が届いたが「兄の結婚で、家にあるお金はこれだけ~」という手紙が~以降、家族に迷惑はかけられないと、家への連絡を断った。

一元を節約する為、朝四時に郊外の家から北京電影制片廠まで走って行き、機会を待ち続けた。
出演のチャンスが無い時にはアルバイトをして、毎日五~十元を稼いだ。

映画に出られるチャンスがあれば、どんな危険なこともこなした。
時間が経つにしたがって、王宝強の礼儀正しい態度に好感を寄せるスタッフが現れ、出演の機会を与えてくれるようになっていった。

2000年。素朴な様子が主人公に似ていると、十六歳の時に映画「盲井」の主役に抜擢される。
撮影現場は炭鉱の地下。二十時間を超える撮影の後、事故が発生。まだ危険な状態で、残りを撮影しなければならなくなり、多くの出演者たちが離れていく中、「自分にとっては唯一のチャンス~父母のことは思い浮かん~この現場で死んだら、父母は僕が何処で死んだかも分からないことになる。けど、賭けてみたんだ」と、王宝強は撮影を持続~彼にとっては巨額の二千元を手にして借金を全て返した。

盲井」は、その内容から公開を禁止されたが、馮小剛監督の目に留まった。
「天下無賊」の脇役傻根~目の澄んだ、傻(間抜け)的な雰囲気を王宝強の中に見出した。

馮小剛からの電話を受けた時、王宝強は誰かが騙そうとしている思ったが~監督に直接会って、ようやく信じることが出来た。

映画の中、農民工の傻根は、世の中に悪人がいるなんてことは疑いもせず~出稼ぎから帰郷する時、稼いだ六万元を持っていることを周囲に隠すこともせず~混乱させるが、悪心を起こした周囲の人たちを変えていく~

たった9年の学歴しかない王宝強。
台本の中には読めない字もあったが、辞書を片手に~撮影の前日には全てを覚え~この様子を見たスタッフたちは彼を助け、映画が公開されると同時に王宝強は人気者になった。

「眠りにつく前は誰も僕のことを知らなかった。目を覚ましたら皆が王宝強=傻根を知っていた」
2003年、金馬賞の最終新人賞を獲得~初めて飛行機に乗って、会場へと向かい~大スターたちと共にステージに上がった。

ようやく帰郷した王宝強~村人たちは総出で出迎えた。
傻根な印象で人気が出た王宝強だが、「大英雄を演じる」という夢は持ち続けていた。
馮小剛からの「焦らずに、快速で飛ばすと、失速するのも早い」という言葉も。

台本を選ぶようになって~「士兵突撃」への出演を決める。
彼が演じる許三多と自身の経歴が似ていて~入隊したばかりの許三多は「回れ右」さえうまく出来ない、お荷物になっている兵士だが努力し続けてチャンスをつかむ。

脚本家は、、、
兵役を経験したこともなく、背も低く、軍人として見栄えの悪い王宝強が許三多を演じることに反対していた~出演者たちは共に軍隊合宿を実施。その経過を見ていた脚本家は「彼が許三多なのか王宝強なのかハッキリしなくなっていった」と。。。

2007年、許三多は話題の人となり~王宝強=傻根ではなくなり~演技力も認められるようになった。

彼の成功が偶然ではないのは、、、
2010年に出演した「人在囧途」で喜劇の才能も発揮~2011年の「人在囧途之泰囧」は、中国映画観客動員の新記録を達成。

2014年、ドニー・イェンと共演したカンフー映画「一個人の武林」で冷酷な殺人鬼を演じ~八歳からの夢を三十歳で叶えた。
by takeichi-3 | 2015-06-27 23:59 | 偉人たち | Comments(0)

董英傑三代。。。楊家拳

楊澄甫の高弟だった董英傑と息子董虎岭の表演。。。



≪董英傑≫
河北邢台任県人の農家に生まれた。幼い頃から聡明で将棋なども強かったが、虚弱だったので、祖父の友人だった劉瀛洲から武術の基礎を学んだが~当時七十歳になっていた劉瀛洲は、楊兆林(楊班侯の弟子)の弟子李増魁を紹介~楊家太極拳を学ぶ。

太極拳を深めたいと思った董英傑は、何とか楊家から直接指導を受けたいと願っていた。
楊氏の功夫は不外伝と言われていたが、、、
「志誠があれば天が道を開いてくれる。武侠たちは義気があったから、忠実な者には奥義を授けていた。拳不外伝というのなら、どうして陳家溝の拳が外伝したのか~」
と、楊家の門を叩き~楊澄甫の片腕となり、楊家拳の広域発展に貢献した。


そして、カナダで活動をしているという孫の董继英。。。


by takeichi-3 | 2015-06-01 23:56 | 偉人たち | Comments(0)

楊澄甫、死の原因。。。

二十世紀最高のバレーダンサー、マイヤ・プリセツカヤの瀕死の白鳥。
肩と肘、肘と手の間にも関節があるかのような動きです。



2015年5月2日、89歳で心臓発作のためドイツで亡くなったのですが、、、
遺言により、遺骨は散骨に。。。

最近、知人たちと会う機会があると~「散骨」について語り合うことが多くて。
代々の墓を永代供養にして、自身は散骨にすると決めた人がいたり。
ネットには、「近くて便利、東京湾散骨~ペットも可」とか、ドライな広告も。(((((^^;


f0007580_23595774.gif
温和な性格だったという楊澄甫。
争いごとは少なかったのですが、、、
その生命に大きく影響したのではないかという事件があります。




f0007580_062497.jpg
1931年の早朝、午前8時過ぎ。南拳の名師萧聘三が浙江国術館で黒虎拳を教えていた。黒虎拳は脚を踏込む時に声を発する。踏込みは力強く、泥濘にクッキリとした足形を残しながら進んでいく。生徒たちが、威力を見せてくれとせがむと~レンガを持ってくるように命じ~大声と共に木っ端微塵に砕いてしまった。
それを見た三十人余りの生徒は大喝采!

当時、国術館の教練長を務めていた楊澄甫。
起床時間はいつも遅く、まだ睡眠中だったが、外の騒ぎに目が覚めて~何が起きたのかと、やって来た。

「学生たちに黒虎拳を教えていた」
「これが何の役に立つというんだ?」
この言葉に刺激された萧聘三は、楊澄甫に試合を申し込んだ。
「よかろう。私の腹を三回打て」

萧聘三が、足劲を加えた拳で楊澄甫の腹を打つと~楊澄甫の顔には苦痛の色が浮かんだ。
二発目、口から血が滲み出て~三発目を打ちこまれた後、楊澄甫は、右手で腹を抑えながら、左手で粛聘三の胸を打った~粛聘三は2m飛ばされて、血を吐いた。

周囲の人によって、互いに自室へと運ばれた二人だが、傷は重くて~その後、生徒たちに教拳出来なくなり~ほどなくして、楊澄甫は国術館を去った。


★楊澄甫の十大弟子⇒ http://takeichi3.exblog.jp/22277226/

萧聘三は、1933年に死亡。楊澄甫は、1936年に死亡。
1931年の事件が二人の命を縮めた原因ではないかと推測されている。
by takeichi-3 | 2015-05-04 23:58 | 偉人たち | Comments(0)

呉彬、呉京を語る。。。

既に什刹海体育学校(北京武術隊)を引退した、多くの功夫スターを育てた呉彬老師が語る&呉京。
彼の自宅で~70年代の北京武術隊の写真。。。ジェット・リーやドニー・イェン。

「多くの人が誤解していたよ、呉京は息子だって~」
少林寺の監督を務めた張鑫炎に見いだされてスクリーンデビューした呉京。。。
「彼のアクションはパーフェクトだ」




さて~明日から北京です。。。((((((((/-_-)/
by takeichi-3 | 2015-04-22 23:48 | 偉人たち | Comments(0)

莫桂蘭。。。黄飛鴻、最後の伴侶



南拳五大門派の一つ莫家拳の映像を見ていて。。。
「黄飛鴻の最後の伴侶、莫桂蘭は莫家の出身~?」と、、、

f0007580_0161386.jpg
莫桂蘭:1982年生まれ。
幼い頃に父母を亡くし、広州で武館を開いていた叔父に養われ~莫家拳を学び~武術好きで、男性的な性格をしていた。

19歳の時、舞獅表演大会を見に行き~梅花桩で表演していた黄飛鴻(当時55歳)の布靴が脱げて、彼女の胸に当たった。

何の謝罪もなく演技を続ける黄飛鴻に腹を立て~梅花桩に飛び乗ってビンタを見舞ったところ、黄飛鴻に抑えられたが、相手が若い女性だと知った黄飛鴻池は力を緩め~それが縁で、四番目の伴侶となる。

莫桂蘭を伴侶に迎えた黄飛鴻は、対外に、二度と弟子はとらないと宣言。。。


莫桂蘭にだけ、虎鹤拳、鉄線拳、四象標龍棍などの絶技を余すことなく伝えた。



★黄飛鴻亡き後~香港で教拳していた莫桂蘭の様子⇒ http://takeichi3.exblog.jp/22743733/
by takeichi-3 | 2015-04-06 23:56 | 偉人たち | Comments(0)

陳王廷。。。陳家溝

太極拳創始者は張三豊ではなく陳王廷と主張する陳家溝発の映像が立て続けに出現しています。
その先駆け的な動画。。。



映像内容とは一致していませんが、、、≪陳王廷≫
陳家溝、陳氏始祖陳卜の九世孫。
陳卜は、西澤州郡(晋城)東土河村の出身だったが、戦乱などで村人と共に追われて移民~戦で荒れ果てた地に移り住み開墾~その忠厚な性格と武功により村人たちの尊敬を集めて新村は“陳卜庄”と呼ばれるようになった~が、二年後にはその土地を捨てて全家で移動~現在の陳家溝に落ち着いた。

陳家拳は、陳王廷の時代に大いに発展。
祖父と父親は共に明朝の下級官吏だった。四人兄弟の二番目。幼い頃から聡明で勉学に励んだ。武術の才能は抜きんでていた。また、諸子百家や経史子集など~淵博な学識を身に付けていた。

青年期には山東省一帯の鏢(用心棒)として名を馳せ~「二関公=関羽を継ぐ」と呼ばれていた。
明朝の武挙試験で、騎乗したまま矢を射た時、九箭ともに的に当たったにも関わらず、賄賂を受け取った検査官は三回しか太鼓を鳴らさなかった(=三回しか当たっていない)ことに怒り、検査官を切り殺してしまい登山崇山に身を隠した⇒この時期に、少林寺拳も身に着けたと予測されている。

清朝になって、年老いた陳王廷は、故郷に戻って隠居。
民間武術を研究し、家伝の拳と融合させた新しい套路を創った⇒武術、医術、文化が三合~理根太極=太極拳。
by takeichi-3 | 2015-03-24 23:58 | 偉人たち | Comments(0)