北京で太極拳

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中国農村の留守児童。。。

中国の農村、両親が出稼ぎに出ている留守児童の数は6100万人に上ると言われています。
その殆どが、祖父母と暮らしていて~子供だけが残されている家も少なからず。。。
それもあってか、ショートフィルムの題材によく使われいます。



息子が都会で医師になった老母と留守児童の交流を描いた作品。

村人に手紙を配っている暁軍は、親が出稼ぎに行ってしまい~農村で一人で暮らしている。
都会で医者になっている息子からの手紙を心待ちにしている老母は目が悪くなっていて。。。

「母さん元気?とても会いたいよ。僕は、うまくやってるよ。省の活動があって、僕も参加することになったから、明日出かける~その間は手紙を書けないかもしれない。目の具合はどう?この任務が終わったら迎えに行くから、町で検査をしようね。そうだ。靴がボロボロになってしまって~新しいのを作ってくれないかなぁ。母さんの靴を履いていると、どんなに離れていても見守られているような気がする。身体に気をつけて~」という息子からの手紙が、、、

老母の息子からの手紙が届かなくなって~校長先生から息子が事故で亡くなったと聞かされ、、、
「高齢の老母には伝えないほうがいいだろう」と言われた暁軍。

手紙を心待ちにしている老母には、「二三日したら来るよ」と誤魔化し~代わりに手紙を書くことにする。

卒業式を迎え~町の中学に入学することになっている暁軍は、村を離れたくないと校長に告げるが、、、
「大きくなったら、皆んな村から離れていくんだ」と、、、

町の中学校に行くことを老母に告げると~
「遊ばずに勉強するのよ。頑張るのよ」
「これからは、手紙を届けてあげられない。。。そうだ、手紙が来ているよ~」
「小軍、部屋に行って、水を一杯汲んできておくれ」
カップを捜すと~カップの横に、息子の死亡を知らせる手紙が置かれていた。

「小軍、まだ手紙が一通あるんでしょ~」
「母さん、これが最後の手紙になるかもしれない。遠くに行かなければならないから~体に気をつけてね」
「ね。返事を書いてくれない。。。あなたの気持ちは分かっているから、安心して出かけて。あなたが楽しく無事に過ごせることを願っている」
by takeichi-3 | 2014-05-31 23:56 | 中国映画音楽 | Comments(0)

パイナップル。。。酢豚

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かつては、高級なイメージがあったパイナップル。
近所のスーパーで、98円で売られていました。(((^^;

保存法~
お尻の部分に甘みが溜まるので、保存の際は逆さにしておくと全体に甘みが広がると言われています。

パイナップルには食物繊維がたっぷり含まれているので便秘予防に効果的。
高血圧予防に役立つカリウムも豊富に含まれています。
ビタミンB1(糖質の分解を助け代謝を促す)、B2、BC、クエン酸などとの相乗効果により疲労回復や夏バテ、老化防止効果も~ビタミンCは抗ヒスタミン作用や気管支の筋肉の緊張を緩めるので、風邪や喉が腫れている時に有効です。

肉のたんぱく質分解酵素に働きかけるため、安いお肉を柔らかくしてくれます⇒食用に適さない芯の部分でも効果は同じ~肉と一緒に漬け込めば、有効利用できます⇒缶詰のパイナップルは不可。


パイナップルを使った、代表的中華料理≪酢豚≫



豚肉の衣は~卵と溶き片栗粉をまぶした後に、再度片栗粉をつけ、弱火でジックリ、きつね色になるまで揚げたら取り出し~二度揚げ~その際、ピーマン、タケノコも一緒に揚げます。

香辛料は、ニンニク、生姜、葱。
味付けは、酢、砂糖、ケチャップ、醤油、塩、スープの素。。。甘めのほうが美味しいそうです。


≪パイナップルと海老の炒飯≫


by takeichi-3 | 2014-05-30 23:53 | 北京で中国料理 | Comments(0)

陳発科。。。北京での発展

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北京に来てからの陳発科~その技量は?
高弟楊益臣の弟による回顧です。。。
北京西単にある習武の習慣を持つ家に生まれた楊兄弟。
兄弟五人のうち三人が北京電報局で働いてた。

当時五十歳前後だった電報局の主管劉慕三は、呉式太太極拳宗師呉鉴泉の高弟。
二十年以上呉式太極拳を学んでいた呉式と楊式太極拳の達人で、北京では有名だった。
国術が大好きで、毎日、電報局の職員たちと練拳。楊益臣と義弟李鶴年もその中にいて、呉式と楊式太極拳、推手を学んでいた。中でも、兄の楊益臣が秀でていた。

劉慕三は、何時も兄と私を連れて西斜街の国術館を訪れては、館長の許禹生(形意拳、呉式と楊式太極拳のいずれにも秀でていた)と切磋琢磨していた。

太極拳が河南陳家溝から伝わったことを知っていた劉慕三は、陳家溝に行きたいと願っていたが、時間を作れずにいた。

1928年、陳家溝から北京に教拳にやって来た人物がいると聞き喜んだ。
以前は、外には伝えないと言われていた陳氏拳~自分たちが陳先生を招いたら、応じて拳を見せてくれだろうか~などなど話していた時、李鶴年が「試してみよう」と~劉慕三の車で陳発科を迎えに行った。

劉慕三の家に招かれた陳発科。
挨拶が済むと、陳式太極拳の一路と二路を連続して披露した。

陳発科を滞在先へ送り届けた後、劉家にいた十数人は喧喧諤諤~
「あれが太極拳?」「太極拳は舒展缓慢、以柔克剛なものなのに」「一套路を通すのに二十分はかかるはずなのに、二つの套路が十分もかからずに終わってしまった」「太極拳じゃないのでは~楊氏と違い過ぎる。震脚も跳躍もあるし、声も出している」「民間に伝わる拳の一種じゃないか?」

その時、劉慕三が、、、
「気がつかなかったか?動作が速いとはいえ、旋回と圓で動いている。発劲があっても、放松している。発力の時に声を出しても、脚下には根がある。表演を終えた後、息が上がることもなく、顔色一つ変わっていない。功夫があるのは確かだ。あれが本来の陳家拳なのだろうか。取りあえず、拳式を教えてもらい~しかる後に、推手を請うことにしよう。私よりも強かったら、続けて学ぶことにする。先ずは、様子を窺おう」

最初に習い始めたのは十人前後。皆、電報局員だった。
一路を習い終えた劉慕三は、推手を願い出た。北京の武術界では有望視されていた劉慕三だが、陳発科老師の推手は、今までに経験したことがないものだった。二人が手を合わせるや否や、劉慕三の歩みは乱れに乱れ幼子のように翻弄され~腕関節の靭帯を傷めてしまった。

「劉先生が力を入れたので、うかつにも加減ができなくなってしまった。松開転圓を維持していれば自然に化解出来るので、互いに傷つくことはない」

北京に来たばかりの陳発科は、天橋に出かけては各式拳や摔跤、中幡などを見て研究していた。これは、新しい拳架を創るのに大いに役立った。

ある春節、妻子が故郷に帰ってしまい、一人北京に残っていた陳発科を我が家に迎え入れた、、、
皆が集まって歓談している時、李鶴年が質問した。
「誰かが快速で拳を打ち出してきた時、どう対処しますか?」
「ここに座っている私に向かって、打ってみなさい」
言葉通りに拳を打ち出した李鶴年は、目にもとまらぬ速さで飛ばされ~部屋の外まで飛んでいきそうな勢いだったが、背中が門の簾に触れたところで陳発科に掴まれ引き戻された。

一体何が起こったのか?誰にも分からなかった。
李鶴年は顔面蒼白になっていたし~後に、
「拳を打ち出して~打ったはずなのに、陳師の身は空で~綿花の中に入り込んでいくような~そして、飛ばされていた。先に飛んでいたのに、陳師は椅子に飛び乗って私を掴まえた。心服、心服~」

陳発科は、暇さえあれば練拳していた。
歩きながら、座りながら、、、いつもイメージを働かせて動いていた。
早朝五時、私たちが練習会場に到着する頃には、陳老師の練習は終わっていた。毎日、二十回は套路を通していた。

弟子たちには、先ず、目の前で套路を通させる。
その後、老師が説明をして実際に動いて見せ、細かく弟子の間違いを糾正~それから運用と応用。

弟子たちが練習をしている傍ら、タバコを吸いながら椅子に座り~ 「ヨシ!」「ダメだ!」
劲は肱にあるのか腰にあるのか~推手はどう使う~気が下まで沈みきっていない~腰の回し方は、それでいいのか?~虚領頂劲の加減は?
手取り足取りという、辛抱強い教え方だった。

当時、陳発科の長男陳照旭も一緒に練習をしていて、子供ながらに推手が上手かった。
ある時、練習仲間の一人が、、、
「あんな小さいのに功夫があるなんて、きっと老師から秘訣を教わっているんだろう」
と言ったが、、、そんなことは無い。

夜中過ぎに起こされて、午前三時位から老師と共に練習をしていた。テーブルより少し高いくらいの背丈の子供が、大人たちと同じように容赦なく仕込まれていた。

陳発科の教え方は、誰に対しても同じだった。
「技を隠したりはしていない。教え方も、自身の修行もまだまだなのに~隠すべき何があるというのだ?」

北京の誰もが、その武徳を称え尊敬していた。

★陳発科物語⇒ http://takeichi3.exblog.jp/22156909/

陳発科が考え出した、タントウ効果も兼ね備えた練習方法。。。。≪三環掌≫




by takeichi-3 | 2014-05-29 23:57 | 偉人たち | Comments(0)

陳発科。。。陳式太極拳の発展

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今日は、陳式太極拳発展に貢献した≪陳発科≫
してしまいました。。。(#^_^#)

陳発科(1887-1957)。。。
陳氏十七世(太極拳第九代)
陳氏十四世「牌位大王」陳長興の曾孫。
父延熙は陳氏太極拳の一代大師。

19世紀50年代、陳家溝で拳を学んだ楊露禅が北京にやって来て、太極拳を教え始め~
その子、楊班侯と楊健侯~孫の楊澄浦の三代に亘る努力の下、太極拳は、宮廷~北京天津~と広まっていったが、当時、陳氏拳は殆ど知られていなかった。

陳発科が北京にやってくることになったきっかけには諸説ありますが、、、
そのうちの一つ。

1927年国民党政府が南京に移り~
北京体育学校で太極拳を教えていた楊澄浦や呉鑒泉等は、北京を離れて南京や上海へと教拳に向かった⇒体育学校の太極拳教練が足りなくなり~許禹生は、楊露禅が拳を学んだ陳家溝から陳氏拳継承者の陳照丕(績甫)を教練として呼び寄せた。

多くの武林高手が集まっていた北京。
腕試しを挑んで来る者も多く~拳で生計を立てていくのは大変なことだった。
勝敗は自身だけではなく、陳氏拳の名声にも関わることと考えた陳照丕は、叔父の陳発科に、北京に来るよう要請する手紙を書いた。

1928年、北京にやって来た陳発科は、挑んでくる相手を悉く倒して存在を確かなものとした~
名声が高まるにつれ、教えを請う者も増え~北京において、三十年に亘り陳氏拳を教え~陳氏太極拳の発展に貢献した⇒北平(北京)国術館館長の許禹生や血気盛んだった李剣華、沈家楨、洪均生、雷慕尼、田秀臣、陳照奎、馮志強等が陳発科に学んだ。

★北京でのエピソード⇒ http://takeichi3.exblog.jp/22165038/

≪陳発科≫
楊露禅の師匠≪陳長興≫の曾孫。
父陳延熙の晩年に生まれた息子⇒兄が二人いたが、共に伝染病に罹り亡くなっていたこともあって、家人たちは彼を溺愛~好き放題に食べさせたりしていたので内臓が弱く、いつも発病していた~練拳が体を強くすると分かっていても、虚弱体質を理由に十四歳になるまでは本格的な練習はしていなかった。

当時、父親の陳延熙は袁世凱の元で教拳を担っていたので家にはおらず、従兄が留守宅を守っていた。体格が良くて、拳も相当だった従兄~当時の陳家溝でも上級レベルの腕前だった。

ある夜、数人の陳氏年長者たちが陳発科の家で雑談していた。
話題が家伝の拳に及んだ時、
「先人たちの武芸を引き継ぎ高手となった延熙だが、それも彼の代で途絶えてしまうな。発科は十四歳になったというのに、あんな風に病弱では功夫を成さないだろう」
と話すのを聞き、自身を恥じた発科は、“伝家の拳を自分の代で途絶えさせてはならない~少なくとも従兄を超えなければ”と思ったものの~従兄と同じペースで生活(食べ、眠り、働き、練習)していると、従兄にも同じだけの力がついていくから、いつまで経っても超えられない~どうしたらイイのか?と悩み、夜も眠れなくなり、食欲も落ちていった。

ある朝、従兄弟と二人で田んぼに向かう途中、農具を忘れたことに気付いた従兄から、
「走って、取ってきてくれないか~直ぐに追いつけるように、私はゆっくり歩いていくから」と言われ~農具を手に駆け戻って来て気づいた⇒従弟より多く練習すれば、彼を超えることが出来る。

その日から、猛練習を始めた。
従兄と同じように練習するだけではなく、従弟が昼寝をしている時や夜~床につく時間は同じだが、二時間ほどしてから起きだして寝室で練習⇒十七歳の時まで三年間、練習を続け~遂に従兄の知るところとなった⇒いつも一人きりで苦練をしていた訳ではなく、時には、叔父たちに推手の指導を請うこともあった。しかし、腕の立つ従兄には言い出せずにいた。

従兄は、
「きちんとした練習をしなければ、自分勝手にやっていると癖がついてしまい、戦う時の弱みになる」と、、、

三年の苦練を積み、丈夫になっていた発科の身体は正常に発育~背は伸び、体格も良くなっていた。
功夫も、レベルアップしていて~自分がどれだけ進歩したのかを試してみたくなり、従兄に推手を申し出た。

従兄は笑いながら言った。
「以前は痩弱だったから、他の従兄弟たちと同じように扱っていなかったけど、今なら、倒しても問題ないくらい丈夫になっているな~」

手を合わせ~従兄は、三回連続で発劲を仕掛けたが、共に発科の反撃に遭って倒された。
三回倒され、発科の功夫が自分を超えたと悟った従兄は、悔しげな口調で、、、
「私に及びもつかなかったお前が私を超えるなんて、どんな秘訣があるんだ?」
「父親は不在だし、特別な秘訣なんてない。この三年の苦練の成果だけだ」

父親が家にいなかったとはいえ、幼い頃から、その指導方法を傍らで耳にしていたので、何をすべきかを理解していたのだろう。そして、叔父たちから学んだことも多くあったのだろう。

同じように陳氏の拳を学んだ二人の知識に差はなかったはず。。。
「秘訣なんてない」とはいえ、既に自身を武林高手だと思い自惚れていた従兄と、それを追い超す為に多くの時間と体力を費やした発科。

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結論~「苦練なくしての成功はありえない」
太極拳史の中で、教訓として用いられているという有名なエピソードです。。。


弟子の一人≪田秀臣≫。。。


by takeichi-3 | 2014-05-28 23:47 | 偉人たち | Comments(0)

太極拳の普及~楊露禅の功績②

昨日の続き。。。(#^_^#)



雇い主に乞われ、同僚の武術家たちと腕比べをすることにした楊露禅は、瞬く間に相手を倒した~喜んだ主人は、即座に楊露禅を上座に座らせた。

この一件が楊露禅の名を広めたので多くの人が挑んできたが、負けることはなかった⇒「楊無敵」
その名が大きくなるにしたがって、面倒なことも起った。

「楊無敵」を耳にして、凄腕の人物が挑んできた。
当時の北京には多くの武林高手が集まっていたが~晩清代の十大高手の一人、八卦掌創始者薫海川。

楊露禅よりも二歳年上。河北出身。
人を殺め、北京へと逃げてきて~王府に入り込み大監となっていた。楊露禅が使う太極拳の評判を聞き、腕比べをしたいという気持ちを抑えきれなくなった。

この二人の腕比べについて、民間には多くの伝説がある。
視線を交えた瞬間に勝敗が決まった。
挨拶の時、触れ合った瞬間に勝敗が決まった。
手を合わせた後、三日三晩経っても勝敗が決まらなかった。

当時の武術家たちは武徳を大切にしていた。
お互いが武によって生活をしている⇒その生活の糧を奪うことがないように~互いの名誉が傷つかないように~観客の目で勝敗が見極められるような戦い方はしなかった。

楊露禅と薫海川は教養のある戦い方をした。。。
薫海川~鳥を籠から放ち、空高く飛んでいく鳥を軽々と飛び上がって捕まえた。
楊露禅~その鳥を手に乗せると~鳥は、飛び上がる際の蹴り出しを化され、飛び立つことが出来なかった。

楊露禅を主人公としたテレビドラマ≪太極宗師≫の中、二人の格闘シーン。
結果、勝敗はつかず~二人は親友となった。

北京での名声は益々高まり~
武禹襄の二番目の兄の推薦で、端王府へと赴き武術教官を任ぜられる。その当時は太極拳と呼ばれていなかった⇒「綿拳」⇒旗人(満族)のみ教え、漢人には教えなかった⇒近八旗のみ、外八旗には教えなかった。

太極拳は、どのようにして現在のように普及するに至ったのか。。。
楊露禅第四代伝人の楊振鉾によると、
一代宗師楊露禅~曽祖父~祖父~父楊澄甫へ~三代人を経て。。。

楊露禅の生徒たちの多くは王公大臣や貴族たち⇒恵まれた生活、耐力はなく病弱、辛苦に耐えられなかった⇒彼らに必要なのは保健だと考えた楊露禅は、難度動作は簡単に~柔らかく動き易いものに⇒王公大臣や貴族たちの身なりにも適していた。

その後、子孫によって改修され~楊式太極拳としての型が定まった⇒大小二種の套路⇒柔和緩慢、舒展大方、速度緩均、剛柔内含、深蔵不露、軽沈兼有~この拳は、北京、天津一帯に大きく影響を及ぼし、日に日に学ぶ者が増えていった。

この頃、陳家溝の太極拳は、陳姓内部のみに伝えられていた⇒河南陳家の拳を知る者はいなくても、河北楊家の拳は皆に伝わっている~と言われていた。

北京で厚遇されていた楊露禅の蓄えは多く、故郷に不動産を購入~子孫たちは清廷で武官を務め栄えた。

同治帝の師、書家≪翁同龢≫が試合を見た後に、その技術の高さを褒めた文がある。
「楊身体神速、虚実莫測、身似猿猴、手運如球、猶太極渾圓一体也」
そして、「手捧太極震環宇、身懐絶技圧群英」と記した联を楊露禅に贈った。

出世していく楊露禅~
親王や宦官子弟に拳を伝え~次から次へと、多くの宮廷人に伝わっていき~民間にも流伝~習いたくても習えない者が出現~陳家溝から伝承者を招けば良いと考えた者がいて~(乞われて、陳家溝から北京にやってきたのは陳発科)~これより、陳式太極拳の普及が始まる。

楊式太極拳は、呉式、孫式へと発展していく。
中国で、一番行っている人が多いスポーツは太極拳⇒楊露禅の功績による。
by takeichi-3 | 2014-05-27 23:57 | 偉人たち | Comments(0)

太極拳の普及~楊露禅の功績①

全世界に太極拳を普及するのに貢献した≪楊露禅≫の足跡を辿った番組です。。。



陳家溝で修行~六年の後、進歩を自覚した楊露禅は故郷の広平府へと戻った。
当時の広平府には多くの武林高手がいて~腕試しを挑んできた武林高手に負けてしまった。

敗けたのは、自身が陳家溝で学んだ「綿拳」のせいではなく自分が未熟だったからだと、直ぐさま陳家溝へと戻った⇒再び、六年の修行を積むが~師傅陳長興は秘訣を伝えない⇒自身の生活の糧である技術を余所者に与えたりはしない~が、常識。

又も六年。苦行を積んで故郷へ戻った楊露禅。
再び、腕を試そうとする者が出現~わざと手を引っ張ったり、ぶつかってきたりしてきたが、かなりレベルアップしていたので負けることはなく得意になっていた。

そんな楊露禅に不服を感じたのは、武禹襄⇒当時20歳を超えていて~楊露禅より13歳年下=裕福な官吏の家に生まれ、幼少より武術を嗜んでいた。

楊露禅の腕を確かめてみたかった武禹襄は、彼を家へと招いて数回手を合わせたが、勝負はつかなかった。自信を持ち始めていた楊露禅の気持ちは複雑~十数年の修行を積んだのに、自分よりも武術歴の短い若者を倒すことができない~

太極拳は養生を主としているので、楊露禅は倒すことをしなかった~という見方をする人もいるが、、、
後に、楊露禅が北京で得た名称は「楊無敵」⇒相手を打ち負かした事実を証明している。

そして、三度目の陳家溝修行。
目標を定めたら諦めない~執着心が楊露禅を成功に導いた。
思いがけず、再び現れた楊露禅の気持ちに~真諦を手にするまでは死んでも死にきれないだろうと判断した陳長興は、全ての技術を授けた⇒十八年を費やた。

別の説。。。
三度目の陳家溝行きに際して、今度は無駄にならないように~又、取得した技術を自分に教えるという条件を提示した武禹襄が、それなりの金銭を楊露禅に提供した。

清代、学問も武術も金持ちでなければ学ぶことができなかった⇒金銭の支払いがなければ、本質的な物は与えて貰えない⇒陳長興の元で衣食住の面倒を見て貰っていた楊露禅が、先祖伝来の財産である拳の真諦を授けられることはなかった。

無敵の武芸を身に付けて故郷の広平府に戻った楊露禅。
陳家溝では十種の実戦套路と点穴法、刀、槍、棍棒なども取得。
現在風に例えるなら、優れた技術と高学歴を備えた⇒高給を取れる条件を備えたことになる。

当時、武芸者が就ける職業は限られていた。
兵士、ボディガード、拳師、山賊。
四十歳を越えていた楊露禅は、北京で官吏となっていた武禹襄の二番目の兄の紹介で、張という富豪の家の武術教師(子弟の武状元試験の為)として雇われた。

北京における楊露禅最初の職業。
多分、給料はそんなに高くはなかっただろう。
張家には、既に多くの武術家がいて~体格が良かった彼らに比べ小柄だった楊露禅を、雇い主は軽んじていた⇒武術家たちが一堂に会する時、末席に座らされていた。

張氏が、「お前が得意とするのは、長拳か少林拳か?」と尋ねた時、
「長拳でも猴拳でも少林拳でもありません。綿拳です」と答えた。
張氏は蔑んだ口調で、「綿拳で人を打てるのか?」と、、、
修養を積んでいた楊露禅は、穏やかな口調で、
「綿拳は人を打つためのものではありませんが、いざという時には、勝ちます」と、、、

続きは明日。。。m( _ _ )m
by takeichi-3 | 2014-05-26 23:57 | 偉人たち | Comments(0)

偉大な女優、、、上位三人

何気なく、見てしまった映像。。。
映画、「ティファニーで朝食を」のオープニングシーン。
オードリー・ヘップバーン、、、綺麗です~最も偉大な映画女優50人の第三番目だそうで、、、




一位が気になってしまって、、、キャサリン・ヘップバーン。
合計4回、アカデミー賞を受賞しているそうですが、、、




第二位は、、、ベティ・デイビス。
「ベティ・デイビスアイ」というヒットソングがあるので、目が魅了的なのでしょうか?




第四位以下は、こちらで、、、
http://www.discas.net/netdvd/afiActor.do?pT=0
by takeichi-3 | 2014-05-25 23:57 | 中国映画音楽 | Comments(0)

現在の功夫は、先人に敵わないか。。。

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中国の武術雑誌≪中華武術≫
会員になると、毎月、機関誌を送ってもらえます。

5月号の中、高名な太極拳老師三名による、、、
≪現在の功夫は、昔の功夫に敵わないか≫という文章があったので、要約してみました。

「功夫」。。。この言葉は、広範囲に亘って冠されていたが、、、
書道でも、詩でも、京劇でも、料理でも~その人の技術が高レベルに達した時に「有功夫」と称していたのだが、ブルース・リーが海外で活躍した影響から、時によっては「功夫=中国武術」と認識されるようになった。

かつての中国武術は実戦がメインだったが、、、
現代武術の主流ともなっている套路(表演)は、花架子(綺麗だが、実戦技術が伴っていない)なので、功夫が無いという解釈をする人もいる。

これについて、、、
中国武術も時代と共に変化している。太極拳の現況で捉えるなら、発展的変化という見方もできる。

先人たちは、自身や家族を守る為に武術を学んだ⇒功夫のレベル判断は、その攻撃力に比例していた。
現代では、大多数の人が健康の為に太極拳を学んでいる⇒先人たちに敵うわけがない。しかし、健康という面では、先人たちよりも長寿を得ている。

表演。。。
大会などで演じられる套路は、見栄えの良さが要求されている。高難度動作をこなせる技術=功夫と称することが出来る。

例えば、脚上げを伴う動作。。。
かつての実戦太極拳では、脚は腰の高さを超えなかったし、早く下ろしていた。
しかし、現代、大会に出場する選手たちは、肩以上に脚を上げ~控脚(脚を上げた状態)の時間も長い。
そして難度動作~かつての太極拳家たちには出来ないかもしれない=表演者としての功夫がある。

時代の発展とともに、武術にも変化がある。
各時代毎に各時代の特色があるのは当たり前⇒実戦を基準にして、現代の功夫が過去の功夫よりも劣っていると、一様に判断することはできない⇒「健身功夫」「表演功夫」という二種の判断基準が生まれている。

武術愛好者たち、それぞれ求めるジャンルが異なってきている。
「健康と長寿」、「競技会での成績」、「実戦」
どのジャンルであっても、一定のレベルに達した時、「有功夫」と称されるものとなる。
by takeichi-3 | 2014-05-24 23:54 | 太極拳 | Comments(0)

世界チャンピオンの簡化二十四式太極拳。。。

≪呉雅楠=Wu YaNan≫の簡化太極拳二十四式。。。
丁寧で明確な動作です。。。(#^_^#)




≪Wushu Modern Tai chi form≫
自選難度の英語名称。。。“新しいジャンルの太極拳”という感じが強く表れています。



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ついでに、、、
中国チャンピオンチームのアメリカ公演。。。
「韓国POPと中国武術が大好き」と言うファンが作った映像。楽しいです。


by takeichi-3 | 2014-05-23 23:49 | 24式太極拳説明 | Comments(0)

北京で推手&揉手。。。

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北京で推手や揉手を学べるのは、、、
陶然亭公園、動物園、圓明苑、北京大学内、天壇公園、玉淵潭公園、北土城花園、通県体育場、房山琉璃河緑地、日壇公園、地壇公園、月壇公園、礼士路花園、石景山緑地等等~で、週末に開催されているようです。

推手も揉手も、書籍だけでの学習は無理。。。
老師の力を直接感じながらでなければ理解が出来ません⇒「知識」ではなく「懂=体感&体得」が重要。
ので、、、来月辺り北京に~揉手の教えを乞いに行こうと思っています。


北京大学構内。。。こんな風に、動作&説明が受けられると嬉しいです。




天壇公園。。。




芍薬居。。。


by takeichi-3 | 2014-05-22 23:50 | 太極拳 | Comments(0)