「金庸」、知る人ぞ知る〜香港の武侠小説家です。
最新号の雑誌“環球人物”は金庸の特集。
その中、
「本を書いたのは、家族を養うお金を稼ぐため」
という、妹が語る兄の思い出が。。。
祖父は金融業を営んでいて、門が五つ、部屋数は90余り~大きな花園もあったという大宅門に暮らし、数千畝の田畑を貸して、豊かに暮らしていた子供時代。
邸宅内には無尽蔵に書物があり、本の虫となっていった金庸。
“荒江女侠”に魅せられ〜10歳の誕生日に贈られた本“クリスマスキャロル”の中に冷酷非情な守銭奴が慈愛に満ちた善人に生まれ変わるのという物語に感動。
この本は、今現在でも大切に所有しています。
父親には二人の妻がいて、
一人目の妻との間には5男2女が生まれ、その二番目の男の子が金庸。二番目の妻との間には3人の子供がいました。
金庸に大きな影響を与えた祖父は一族で最後の科挙合格者。
「丹陽教案=キリスト教宣教師たちに反発した丹陽の住民たちが教会に焼き打ちをかけた。」の勃発に際し、清政府から「首謀者を調べろ」という命を受けた祖父「査文清」は、首謀者二人をうまく逃亡させ、協力者たちにも丹陽を離れるように促し~その安全を確認した後に、首謀者はいないと報告。官職を退いた。
金庸が生まれて間もなく祖父は逝去。
1936年に小学校を卒業した金庸は中学に入るため、生家を離れる。
その後、1945年まで家に戻らず。
初めての里帰り。弟妹に水滸伝や封神演義などの物語を手足を動かしながら読み聞かせてくれた。
1950年。反動地主として鎮圧され死んでいった父。
残った家族十人の生活は逼迫。既に故郷を離れ、香港で暮らしていた二哥(金庸)に縋った。
以降、金庸は義母弟妹の生活費や学費など全ての面倒をみてくれた。
「金庸が小説を書くのは、名声が欲しいから。」と言う人もいるけれど、兄は家族を養うお金を得るために武侠小説を書き続けねばならなかったのです。
※武侠小説を書く下地となったともいえる生い立ちです。