現在、ブータン国王と王妃が来日中。
その講演内容などが好感を持たれているようですが、、、
ブータンの農業を改革して、現国王より「ダショー=最高に優れた人」という称号を与えられた日本人がいます。その人の名は、≪西岡京治≫さん。
1960年代のブータンは鎖国に近い状態。国民の9割は農業に従事。
しかしヒマラヤの地形では豊かな実りは得られなかった。
主食は赤米と肉。野菜を食べる習慣があまりなかった。
1964年。JICAの前身、海外技術協力事業団(OTCA)より農業指導の要請を受ける。
西岡京治(31歳)は妻、里子(28歳)をつれ、ブータンへ。
西岡は好意的には受け入れられなかった。
与えられた土地はわずか60坪。実習生は14,5歳の少年3人。
しかし西岡はめげなかった。
「成果をあげれば自分の農業技術は受け入れられるはず。」
西岡は「しろ」と言わない、して見せる。言葉で教えるのではなく、自らやって見せた。
3ヵ月後、ブータンの人達が見たこともない大きな大根を収穫。
その噂はまたたくまに村を走りぬける。人々は種を分けて欲しいと西岡のもとに集まってきた。
ある日、一人の男がやってきて言いました。
「この大根の種をくれないか。自分の畑で育ててみたい」
その人物は、第三代国王ジグメ・ドルジ・ワンチュクだった。
国王は西岡に、それまでの400倍もの農業試験場を与えた。
この試験場でブータンには無かった野菜を次々に作っていく。
稲作にも取り組む。
日本の並木植え(前後左右等間隔に植える)を取り入れ、収穫量はいままでの4割も増えた。
そして西岡の農業技術は国中に広がっていった。
1972年。第三代国王が急逝。第四代国王(今回来日したワンチュク国王)が16歳で即位。
その若き国王から相談を持ちかけられる。
それは、忘れられた土地シェムガン南部の開発。
ブータンの中でも最も貧しく、焼き畑農業を繰り返していたため土地は荒れ果てていた。
「西岡の農業技術で救ってくれないか」
わずか16歳で即位した国王の民を思う気持ちにうたれ、西岡は奮い立った。
妻子を日本に帰し、シェムガン南部に向かう。
シェムガン南部では誰もが餓えていた。
西岡はまず、焼畑をやめ、稲作に切り替えるように説得をはじめた。
村人との話し合いは、5年間でのべ800回にもおよんだ。
そして西岡の思いはついに村人を動かす。
険しい斜面ばかりの土地を稲作のために開墾するのは容易ではなかったが、村人は力を合わせた。
西岡はわかっていた。身の丈に合っていないと、根付きはしない。
水路や橋などは、現地で調達できる材料で作った。また、学校や診療所も開設。
こうして、シェムガン南部は変わった。
18万坪もの水田。
斜面に水田のあるその光景は、まるで日本の棚田そのもの。
「米はうまいなぁ」という村人の言葉が、西岡にとってはなにより嬉しかった。
皆、笑顔だった。
西岡は農業指導とはこうあるべきだと言う。
「農業技術の援助っていうのは、技術を農民の中に移し終えたか終えないかっていう事が問題じゃなくて、農民の気持ちがどこまで変わったかと、農民の気持ちを変えることこそ必要なんです。」
1980年。国王は西岡に、『ダショー』の称号を授ける。
ブータンで”ダショー”とは『最高の人』を意味する。
外国人がダショーの称号を授かるのは、後にも先にも、西岡ただ一人である。
西岡は、よりブータンの気候に合うように、野菜の品種改良に取り組む。
いままでブータンにはなかった様々な野菜が市場に並ぶようになる。
そしてブータンの食料自給率は86%に達するようになる。
1992年。西岡京治急逝 享年59歳。
葬儀はブータンの国葬で行われ。参列者は3千人余りにも。
西岡が亡くなる直前まで使っていた机に、シェムガンの村人からの一通の電報が残っていた。
「ダショー西岡。私達はあなたを一生忘れません。あなたの献身的な働きがあったからこそ、今の私達があるのです。」