北京テレビが制作した≪武林档案≫シリーズの≪楊露禅捧手太極震環宇≫
楊露禅が北京に至ってからの部分。。。
北京に来てから、「無敵」と呼ばれていた楊露禅の噂を聞いた、八卦掌の達人≪薫海川⇒河北で人を殺めて北京に逃れてきたが、後に王府で太監となっていた≫は、腕試しをしたくて堪らず~二人は戦うことになった。
この時の様子、民間には多くの伝説が残っている。
・目と目を合わせただけで勝敗が決まった。
・互いに触れ合っただけで勝敗が決まった。
・三天三夜戦ったが、決着がつかなかった。
いずれにしても武術で生活を立てていた者同士、互いに相手の名声を貶めるようなことはしなかった。
まず、薫海川が、鳥籠を開け~飛び立った鳥を軽々と飛び上がって捕まえ、、、
その鳥を手にした楊露禅の掌の上から、鳥は飛び立つことが出来なかった⇒飛び立つためには、足で蹴らねばならないのに~楊露禅はその動きを感じ取って、化解していた。
テレビドラマ≪太極宗師≫にも二人の戦いの場面があるが、互いに平手で打ち合い~最後には友人となった。
北京での名声は益々高く。。。武禹襄の二番目の兄の推薦で、端王府太極拳を教えに行くようになる。
当時はまだ太極拳ではなく、綿拳と呼ばれていた。
端王によって、満族に教えるよう任命された。漢族に教えることは禁じられていた。
それがどうして、今日のような形に変化発展していったのか。
王府の生徒である貴族たちには体力がなく、我慢強くもなかった。
このような人たちには保健が必要。
高難度の動作や姿勢は簡単なものに変えて、動作は柔和で易しく、長い衣装でも動けるように~健康にも良い~楊澄甫によって確立⇒現在の楊式の風格が作られた。
大架、小架の二種の套路があり、、、
その特徴は、「柔和緩慢、舒展大方、速度緩均、剛柔内含、深蔵不露、軽沈兼有」
次第に、北京~天津と広まっていった。
陳式は、陳家内部での伝承していたので、長く広まることはなかったが、、、
楊式太極拳が一般人にも広まるようになると、その源流でもある陳式太極拳の伝承者を北京に招くなどして発展していく。
太極拳の、今日における発展は楊露禅の活躍が大。。。という見解から楊露禅を語っています。
楊露禅が綿拳(太極拳)に出会い、陳家溝の陳長興の下に学びに行き弟子入りを許されるまで。。。
河北広平の楊露禅は、町の薬屋の店主がならず者を軽く打ちのめしてしまった時に使った、今までに見たこともない拳に感動して、老母と妻を置いて~店主から聞き出した陳家溝の陳長興のもとへ弟子入りに。
何故、そんなにも急いだのか?
当時、社会的に成功しようと思ったら、文武のどちらかに秀でている必要があったから。
幼少の頃には少林拳を習っていた武術好きの楊露禅だったが、良い老師にめぐり会うチャンスがなかった。
陳長興は、為替(銀行)商の用心棒をして、山東方面の現金等の輸送を護衛していた。
資料によると、その站桩(馬歩)力は強くて、押しても引いてもビクともせず、≪牌位大師≫と呼ばれていた。
陳式太極拳の源流は?
・陳王廷、家伝の拳。
・戚継光がまとめた≪拳経≫から創った。
・陳王廷が、武当名手将発から学んだ。
陳家溝の陳長興を訪ねてはみたものの弟子入りを拒絶された楊露禅は、聾唖の乞食を装って下男として働きながら練習を覗き見して、夜間に練習⇒≪楊露禅陳家溝盗拳≫
二年の間、聾唖の下男を装い続けたが、ついに発覚してしまう。
それは、映画≪神丐≫の中のシーンで、、、ある夜、陳長興が弟子たちと練習している姿を見て、余りの素晴らしさに思わず声を上げてしまった楊露禅~盗拳者に気づいて追いかける弟子たち、抵抗する不審者が使うのが己の拳だと知って驚く陳長興~問いただす間もなく楊露禅だと気付き、ここ二年の彼の働きなどから人品は悪くない~ということから弟子入りが許された。
三下陳家溝
六年の後、自身で力をつけたと思えた楊露禅は故郷に帰りますが、、、
故郷で力を試すために戦ったところ、負けてしまい~長い時間を費やしたのに、太極拳は弱いのか?などと悩み、再び陳家溝に。
師父にすべてを授けてもらおうと、真面目に練習を積見ますが、、、当時、弟子には最後の一手を教えない~という言葉がありました⇒弟子に最後の一手を教えると、弟子は師父を飢え死にさせる⇒陳家の拳は嫡系のみに伝えられる⇒楊外来人~なので、簡単な基本功の練習に、再び六年を費やします。
再度帰郷した楊露禅の腕は上がり~暫くは負けることがなく、得意になっていたが、、、
楊より13歳年下で当時20歳だった武禹襄(武式太極拳の創始者=名家に生まれ、幼時から武術を嗜んでいた)に招かれて何度か手を合わせたが拮抗~再び、陳家溝へと向かった。
楊露禅の武術に対する執拗な研究心に、陳長興は技術の全てを伝え~三年の後、、、
「無双天下無敵になった。」と、帰郷を促した。
三回目に、何故、陳長興は楊露禅に技術を伝えたのか?
この時、楊露禅は師父に学費を渡していました。
清代に武術を学ぶのは現代と同じように学費が必要だったのです。
「貧しい者は学問に励み、富裕な者は武を学ぶ」という言葉があります。
師父は弟子に食費などを与えたりしなければなりません。
外からやって来た弟子を養うのは無駄⇒取得したと同時に去っていく。
これは武禹襄が楊露禅にアドバイスしたのでしょう。
手ぶらで行ってはいけない、そして、学んだ後には自分に教えることを条件に、少なからぬ金額を学費として楊露禅に与えました。
これは推測ですが、、、楊露禅は武禹襄の提案を受け入れたのでしょう。
十年以上も練拳しているのに、真功夫を得ていない。中途で止めるわけにはいかなかったのです。
お金を持って出かけた三回目の陳家溝。ようやく、陳長興の真功夫を手に入れることができました。
多くの文献に書かれていますが、楊露禅は武禹襄兄弟に陳長興の太極拳を教えています。