今日、2010年に、この本の内容を自分なりに訳した文章を読んでいて。。。
「意為主帥」
まず、自分自身の思想(雑念)を取り除き、気持ちを落ち着かせる⇒精神の放松⇒精神の放松が全身(外見)の放松を導く⇒虚領頂頸を作ると精神放松が得られる⇒この時に現れる放松は、力なく崩れ落ちそうな状態ではなく、松の木のように緩やかな曲線を描きながらも天と地を貫いている力(意識)が感じられる。
「動中求静」、「静中求動」
太極拳が一般の運動と異なる部分⇒“動作”の中に“静”を求めている⇒太極拳で求められる“静”⇒ 速度均一、柔和な動き、意識安定⇒静を基礎とした練習方法⇒站桩⇒「静極生動=静極まれば動が生じる」⇒この“動”は、内在する意気の運行。
以上を理解実践しながら套路練習を続けていると、全身が協調一致した動作が出来るようになり~気血の循環を促し~呼吸による代謝効果は高まり~腹式呼吸による内臓マッサージが可能になる。
停まることなく連環した軟らかい動きは、関節と関節の間のクッション部分の潤滑剤になる。
★というような感じで訳していたのですが、今なら、異なる解釈が加わるような~( ' ' )~~~
と思い、本を読み返しています。
同時期に紹介していた中国の子供向けアニメ~荘子の「天道論」の中の「作車輪的老人」
この内容に対しての受け取り方も変わっていました。。。(^^;
桓公(春秋時代・斉の第16代君主)が本を読んでいると、傍らにいた車輪職人の輪扁が、
「あなたは、どんな本を読んでいるのですか?」と尋ねた。
「聖人の経典だ」
「その聖人は生きているんですか?」
「とっくに死んでいる。」
「じゃ、あなたの読んでいるのは、古人の残り滓みたいなもんですね。」
「お前は、なんてことを言うんだ。どういう道理でそんなことを~。きちんと筋道の通った説明をしろ。出鱈目をいうと死罪にするぞ。」
「怒らないでください。私は車輪職人ですので、車輪作りに例えて説明させていただきます。車輪を作る時、手先だけで急いで削ると省力にはなるけどガタガタな車輪に仕上がります。ゆっくり、丁寧に心を費やして削ると車輪は圓くなります。車輪を作るには技術が必要です。削り方が早くても遅くてもダメです。その手と感覚だけが頼りになります。この不快不漫(早くもなく遅くもなく=急がず考え過ぎず)は、心に手が応じた功夫。これを息子に伝えているのですが、まだ功夫が足りません。なので、70歳になるというのに引退もせずに働き続けています。その本を著した聖人もまた、その知恵を言葉で伝えただけで、本質を伝授しきれずにこの世を去ったのではないかと思います。そんな訳で、聖人の残り滓だと申し上げたのです。」
師匠は弟子に、丸や四角という基本的なきまりを教えることはできますが、技術の高低は弟子の努力。武術にしても師匠は弟子に型を教えることはできますが、功夫は、自分自身の修行を通して実としていくもの。
本に書かれていることは貴重ですが、大切なのは、その本質を追及理解すること。本を暗証できるからといって、本に書かれている事柄を掌握しているとは限りません。