馬虹老師(陳式)のインタビュー記事の中で使われていた師匠「陳照奎」の写真が凄くて。
★青龍出水。。。
「四平八穏、陳氏太極拳有道:”形同座在凳子(ベンチ)上打拳“」
一代宗師陳照奎演練的陳氏太極拳一路83式中的青龍出水招式、架式低穏舒展標準、運用両手、両腿的纏丝劲、将各个関節貫串得如一条線、此式的発劲属于四隅手中的挒劲、拳照显示出深厚的纏丝劲、寸劲及周身一家的太極功夫、与陳式太極拳75式老架中的青龍出水有点不一様、是青龍出水的標準照、这才是正宗的陳家家傳拳架。
★伏虎。。。
这是由陳照奎宗師演練的陳氏太極拳二路71式炮捶中的伏虎招式、拳架練得很低、表現出左右前后及上下的大蓄身法、在開的姿勢下形成蓄劲、蓄含強大的弾抖力与纏丝劲、功夫深厚純正、是正宗的陳家家傳功夫。
★現在では太極拳名家となっている弟子たち(陳小旺、王西安、朱天才、陳正雷等)の青龍出水。
★以前に紹介していますが、改めて。。。
「陳照奎(1893~1971)」⇒陳氏太極拳第十代伝人。叔父
陳発科より学ぶ
1941年、イナゴが大量発生して穀物に多大な被害を与え、その翌年には河南省一帯の大旱魃~等で村民たちの暮らしは逼迫。飢えを凌ぐために草の根や木の皮を食べたり~青壮年たちは村を離れて出稼ぎに行ってしまい、練武者が激減していった。その現状を目の当たりにして、陳家拳の失伝を恐れて帰郷。
当時の弟子~王西安、朱天才、陳小旺、陳正雷、陳德旺、王天宝など三十人余りが集まった。
1966年。文化大革命時~太極拳は大毒草と称され、陳家の先祖を祀る堂や位牌は破壊された。
74歳になっていた陳照奎は迫害され、共に練拳した者たちは「搞小集団」と批判されて、自由に練習が出来なくなっていた⇒「夜聚明散=夜になると集まって練習、朝には解散」
1967年。陳照奎には四つの罪が問われていた。
第一は地主。第二は国術教官。第三は国民政府で教拳していた時に国民党に加入。第四は旧資産階級による反動組織に加入。
幾度かの批判に晒され、耐えきれなくなり~1967年初春に井戸に飛び込んで自殺を図る。
水が浅かったために命を落とすことはなく救出されたが、井戸の底に設置されていた竹筒が足に刺さり怪我を負った。
批判対象者の陳照奎を敢えて治療しようとする医者はおらず、陳正雷と陳春雷は家に連れ帰って塩水で傷口を洗ったり、酒で消毒したりしたが~結果は芳しくなく、片足は使えなくなってしまった。
1969年。人民日報に、「体操、球技、ランニング、登山、水泳、太極拳等の運動を行おう」という毛沢東のスローガンが掲載された。
この記事を読むや否や、新聞を握りしめて陳正雷を探し出し~
「小雷、毛主席が太極拳をやってもいいと~練拳は法を犯すことにはならない」
と、村の青少年たちに練拳を禁じる必要がなくなったことを喜び、資料を整理~「理論十三篇」をまとめた。
1972年。12月30日、80歳で逝去。