ジャッキー・チェンが厨房僧として出演している新少林寺、まだ見ていませんが、その戦いぶり~見事です。
1分45秒辺りから、この厨房僧の普段のお仕事の様子が窺えます~功夫に納得。(#^^#)
★ジェットー・リーが出演した少林寺が公開され、爆発的にヒットするまでは訪れる人も少なく、荒れていたという少林寺。現少林寺最高指導者「釈永信」は自伝の中で、「映画が少林寺を復興させたのか?少林寺が映画を成功させたのか?」を語っています。
私が出家した二年後に、映画≪少林寺=≫が上映されました。チケット代が一毛(一元の十分の一)の時代に、億を超える入場券が売れたのです。これは奇跡でした。多くの人が私に尋ねました。「この映画があったからこそ、少林寺の今の発展があったのですか?」
統計によると、1974年~1978年に少林寺を訪れた観光客は20万人前後。映画が公開された1982年(10月)に少林寺を訪れた観光客は70万人強。最高期は1984年の260万人。90年以降は落ち着きを取り戻して150万人前後となりました。
「映画が少林寺を復興させたのか?少林寺が映画を成功させたのか?」
映画≪少林寺≫を語る時、私には必ず思い浮かぶ人がいます。その人の名は、廖承志。张鑫炎監督から、「映画の制作を提案したのは、廖承志だった。」と聞きました。廖承志は、当時、中国人民大常委会副委員長、国務院華僑主任、中日友好協会会長など中国共産党の対外活動の責任者を務めていました。(日本生まれの日本育ち、その日本語は「江戸っ子」なみのベランメエ調も話すことができるほどであり、日中国交正常化交渉では首脳の通訳として活躍した)
鄧小平が、「対外活動の回復を図るには人が重要だ⇒“要有廟,还要有菩薩=適材適所”。廖公が適任だろう。」と、自ら選んだ人物です。廖承志は文芸(芸=武術、雑技、京劇)への造詣が深い人でした。姉が武術を習っていたこともあって、ことのほか武術には詳しかったようです。ある時、ブルース・リー主演の香港映画≪精武門≫を見て、「これが愛国映画なのか?真の愛国映画を作ろう。」と香港に、少林寺を舞台にした映画の製作を呼び掛けたのです。香港の映画会社が提出した台本に目を通しながら、具体的に修正を加えていきました。出演者を選ぶに際しては、「必ず武術を取得している人でなければなりません。日本の少林寺拳法からの人選でも構いません。撮影場所は中国大陸内で行ってください。」という条件を提示。中原映画は、出演者には李連傑など武術に熟練した者を選び、河南省嵩山での撮影を決めました。
映画製作に取り掛かかった頃、香港の関係者たちは少林寺が何処にあるのかさえ知りませんでした。ある人は山東省にあると言い、ある人は福建省だと。当初に決められていた≪十三棍僧救秦王≫というタイトルは、上映直前に≪少林寺≫に変更。撮影完了後、廖承志は上映時期を観客が一番多い春節に決めて大々的に宣伝活動を行いました。その効あって、公開されるや否や爆発的にヒット。その人気は瞬く間に海外へ広まったのです。
映画少林寺のストーリーは、白衣殿内の壁に描かれている史実「十三棍僧救唐王的故事(隋朝末期~唐朝初期、皇帝の座を狙う大臣“王世充”と“李世民=唐の第二代皇帝”を助ける少林僧たちとの戦い)」が基になっています。映画の中で印象的な、五百羅漢の壁画や少林武僧たちの苦練を象徴するかのように映し出された48の窪みは千仏殿にあります。
映画少林寺が成功を収めた後、中国大陸や香港で作られた少林寺関係の映画やテレビドラマの数は数百にも及びます。廖承志の提案により撮影され全世界に公開された映画少林寺は、中国の開放と相まって中国の伝統文化を地球規模に知らしめました。それは、少林寺自体をも有名にしたのです。今後、これ以上に大きな宣伝効果が得られることは無いでしょう。
廖承志の活躍があったからこそ、この映画は成功を収めることが出来たのです。1500年の歴史がある少林寺ですが、深淵な存在。文革後期には、僧侶の数も少なく崩れ落ちそうになっていました。時代に翻弄された少林寺ではありますが、今では、以前と同じように燦然と光を放っています。今後、その輝きが失われることは無いでしょう。「映画が少林寺を復興させた」ことは確かです。
★釈永信自伝~その他の部分。。。
「出家の経緯」
出家への至りは、とても自然でした。幼い頃から、仏像や仏教関係の書籍が身近にある家庭に育ち、仏教を敬う父母、祖父母たちが折にふれて線香をあげるのを目にしていたので、違和感はありませんでした。当時暮らしていた村には、本の読み語りをする人が数多くいました。農村での暮らし。雨降りが続く季節や冬など、時間が出来さえすれば話を聞きに出かけていました。読み聞かせてくれる人の殆どは出家。そんな環境もあって、「大きくなったら、出家して和尚になれるだろうか?本に書かれているような“雲来霧去(来るに任せ、去るに任せ)”といった、心が満ち足りた神仙のような生活ができるだろうか?」と、理解できないながらも憧れを感じていた幼少期が現在の種になったのでしょう。
父親は水電部第四工程局で働き、母親は五人の子供の面倒を見ながら農作業をしていました。私は老三(三男)。下には弟と妹が一人ずつ。我家は商品粮戸籍(食料供給制度時代、農業戸籍だと自分が所属する農業集団で労働した対価として支給されるので移動が難しかった)を持っていたので、進学するにも仕事を探すにも支障が無い状況でしたが、出家への道を選びました。
1981年。16歳の時に、少しばかりのお金と衣服を持って少林寺に向かいました。五台山にしようか、少林寺にしようか~と悩みましたが、「少林寺には、こんな和尚がいて~彼の功夫は~」という物語を聞かされていたので、「先ずは少林寺に行こう。少林寺が受け入れてくれなかったら五台山に~」と考えました。少林寺のほうが近かったということもあります。九華山や普陀山のことは、読み語りには出てこなかったので存在を知りませんでした。
住持≪行正長老≫を訪ねた時、「何をしに来たのかね?」と問われ、「出家して、武術を学びたいのです。」と答えました。それ以外の言葉は思いつきませんでした。老方丈が家庭情況について尋ねたので、「家人は、皆、仏を拝んでいます。菜食者でもあります。」と答ると、「お前には何が出来るんだ?」という質問が~「農村出身ですから、どんなことでもやります。苦労も厭いません。」と答えると、老方丈は頷きながら、「縁があるのだろう。」と出家に同意してくれたものの、「一度家に帰って、家族の同意書を貰ってきなさい。」と言いました。当然のことながら、家人は反対していました。父母は、村中の知識者を次から次へと家に呼び私の説得に務めましたが、出家するという私の意思の強さに已むなく折れて、出家を許してくれました。
出家儀式は、方丈室の後ろにある立雪亭で行われました。「縁」は確かにあったのでしょう。白馬寺(文献で確認できる中国最古の仏教寺院)の海法大和尚が偶然に居合わせていて、引礼師を勤めてくれました。行正法師は私の髪を剃ってくれました。中国名寺の住持が二人。ただの農民の子に出家儀式を行ってくれたというのは稀な事です。そのことが、より強い使命感と責任感を抱かせることになりました。
行正和尚が私に与えてくれた法名は「永信」。厳粛な儀式の最中、祖先への崇拝・畏敬の念が湧きあがってきたのを鮮烈に覚えています。私を出家させて弟子とすることに同意してくれた師父ですが、文化大革命の嵐が吹き去ったばかりで、宗教弾圧を受けていた僧侶たちは僧衣を身につけることも出来ないという厳しい時代。そんな状況下で弟子を受け入れるという行為は、相当のリスクを覚悟しなければならなかったはず。後に、それを知った私は、より精進に励み仏に奉仕することを自らに誓いました。
寺に入ってからは、炊事、放牛、農作業などありとあらゆる雑用を真面目にこなし学んだので、老和尚たちから、早くに認めてもらうことができました。出家の道は、世の中の人が想像してるものとは異なります。言葉で表現されていることは数多くありますが、信仰を支えに修業して体得出来たものを的確に表しているものはありません。言葉では伝えきれないものの存在があることを実感するのです。
修行生活を通して、少しずつ、自分が出家した目的がハッキリしてきました。生死の意味を知る為。人はどこから来てどこに行くのか?出家することによって人生を客観的に検証することが出来るようになります。僧侶たちは、生死を超越して成せる事や、人が生きることの本質を識ることとなります。
少林寺の住持になってからは、悟りを求める以外に、少林寺そのものの存続を考ねばならなくなりました。当時の少林寺の生存環境はとても厳しいものでした。所有する山林や土地は少なく、寺院周辺に巡らされている壁と壁周辺の28畝の山地があるだけ。その小さな土地だけでは僧侶の全てを養い切れません。
あの頃は、どのように教えを残していけばよいのか?少林寺を維持発展させるにはどうしたらよいか?をひたすら模索していました。宗教に対する政府の対応が良くなるまで持ちこたえられるのだろうか?援助を得られなければ、1500年の歴史を持つ少林寺は自分の代で滅んでしまうのではないか?そんなことはあってはならない。少林寺は、全人類の財産なのだから。。。
「我が師父“行正方丈”」
師父である行正方丈は、本当に素晴らしい人でした。6歳で出家。9歳の頃には両眼の視力は殆んど失われてしまい、向かい合った人の輪郭を感じることが出来る程度。顔立ちを識別することが出来なかったので、来訪者が誰なのかも定かではありませんでした。こんな状態で少林寺の仕事をこなすのは、さぞかし大変だったことでしょう。
ある時、老方丈と私とで登封の街に赴いたことがありました。三角五分の乗車券代を節約するために、夜が明けるか明けないかという頃に出発して、少林寺近くを通過する、セメントや煉瓦、木材を積んだ貨物列車によじ登るように乗り込んで、ガタゴト揺られながら目的地を目指しました。遠くに出かける時の食糧は、事前に購入した20個余りの焼餅。お腹が空けばそれを食べ、折よく茶館があればお茶を一杯ずつ注文するという慎ましいものでした。
目的地での滞在には、いつも睡澡堂(銭湯内に簡易な宿泊設備が設けられていた)を利用していましたが、到着が遅れたりすると泊まれないこともありました。そんな時には、お金がかかる旅館には泊まらずに、駅に戻って椅子の上で一夜を過ごしました。年若く修業が足りなかった私は、人の行き来が多くて、煩くて、寒くて、座ることも立つことも眠ることも適わないという有様でした。ほんの少しのお金を出せば旅館に泊まれるのに、師父はそれをよしとはしませんでした。やりきれない気持が湧き上がる一方で、師父への尊敬の念は深くなっていきました。
当時、北京にある中国仏協会の向かいには、一軒の睡澡堂がありました。宿泊代込みで一元。北京に行く時にはよく利用していたので、従業員たちと師父は顔見知りになっていました。1985年以降、拝観料が入ってくるようになりました。遠出に際し、以前より多くのお金を持ち出している師父の姿を見て、きっと旅館に泊まるのだろうと思っていましたが、北京に到着すると、やはり睡澡堂に行くと言い出しました。
目が不自由だとはいえ、師父の記憶はしっかりしてました。「今日は、△△睡澡堂に泊まろう。駅から○○番のバスに乗って××で降りたところにある。ちょっと様子を見てきてくれないか。」と私に告げました。師父からの言葉に逆らいたくはなかったのですが、その身を案じた私は、「師父、あの睡操堂は既に取り壊されて無くなっていました。」と告げました。それ以降、師匠が睡澡堂に泊まることは減っていきました。当時の年収は数十万元になっていました。
1983年。国家が定めた第一回風景名勝区36の一つに嵩山も選ばれました。とはいえ、少林寺の管理を宗教界に委ねてくれたわけではありません。風景名勝区となったと同時に政府による少林寺管理処が設置されました。それを知った老方丈は、私を連れて開封地区の統戦部、省委統戦部、中央統戦部、国家宗教局、中国仏協会などを訪れては、寺の建物、文物等と入場料の管理を僧侶たちが行えるように訴えました。
まだ“左”思想の色が濃かった当時。宗教政策は改善されていませんでした。何度も繰り返し、話し合いに出かけました。時には、地元の権利者の訴えによって処罰を受け拘留されたこともあります。目が不自由な老和尚と十八歳になるかならないかの小和尚は、何度も何度も北京に赴きました。方丈は、国家の政策は必ず良くなると信じていました。少しずつ、少しずつ、幹部たちの支持が得られるようになるにつれて、政府中央が掲げる政策を支持し法律を守るという条件の下に少林寺の自主管理が許可されました。
方丈と共に過ごすうちに、私には、彼が思い描いている青写真が見えるようになっていました。十年に及ぶ年月の中で失われてしまった、少林寺の伝統と宗教活動を回復させたかったのです。方丈は、少林寺の回復と発展の為には何をも恐れませんでした。ある人は、方丈を指して“菩薩の心、韋駄の胆”と褒め称えました。(韋駄天は南方を守る増長天に従う八将軍の一人。四天王にはそれぞれ八人の将軍がおり、韋駄天は三十二将軍のリーダー。僧や仏法の守護者)
寺にいた老人が私に語ったことです。「知っているか?方丈がいなかったら、この塔林(歴代僧侶の墓地)も失われていたかもしれない。以前、紅衛兵たちが塔林を破壊しようと爆薬を持ってやって来たことがあった。その時、方丈は兵士たちの前に立ちふさがって、「塔林を破壊するなら、その前に私を始末しなさい。」と大声で叫んだんだ。紅衛兵たちは驚いて逃げ去ったよ。お陰で塔林は救われた。又、寺にあった文物や仏像、経典などをいち早く他の場所に移したり、埋蔵したりして、紅衛兵たちの略奪や破壊から守ったんだ。失明寸前の老僧が、自分の命を引き換えにして守り抜いたんだ。彼が少林寺の復興に果たした役割の大きさは計り知れない。」
生涯、苦労が多かった老方丈。彼がいなければ、少林寺の存続は難しかったかもしれません。師父は少林寺の歴史の中でも得難い高僧です。今でも、よく塔林に眠る師父のところに出かけます。師父は私に、厳しい修行をやり遂げる知恵や人としての在り方など多くの事柄をその生き方で示してくれました。今の私が行っていることは、師父が願っていたことの実現でもあります。自身の命をも顧みなかった師父が望んだ少林寺復興に尽くせるのなら、恐れるものは何一つありません。