冷え込みの厳しかった今日。
朝早くから、バスで一時間以上もかかる老師のお宅まで、“太極操=太極拳体操”を習いに行ってきました。
武術本来の実戦を重んじている伝統拳人口が減少している中、表演用太極拳とは別の形での発展を遂げていくような予感がする“太極操”。
中国の伝統武術愛好家たちが、大会用の競技套路を見て口にする、「あれは体操だ!」という部分が、より色濃くなって、一人歩きを始めています。
ま、それは、さておき。。。
呉式の名家“李秉慈老師”が太極拳を教える人たちに講習を行った時の内容でも。
競技用套路の制作に携わったのは、見掛けは難しそうでも、伝統拳に比べると練習を積まなくてもこなせるという利点がある⇒現代人の生活に則している⇒太極拳の発展は、社会とともにあって始めて可能になるのではないでしょうか。
1950年代。太極拳を習うといえば伝統拳。
その後、毛沢東主席の「体育運動を発展させて、国民の体力増加を図ろう。」というスローガンに簡化24式太極拳が応えることによってよって、太極拳=健身という発想が生まれました。
太極拳を習っていると、誰もが姿勢や方向などでの間違いを犯しています。放っておくと、それが癖になってしまうのです。それ故、“学ぶのは簡単でも修復するのは困難”、“一歩一歩、焦らずに確かめながらが重要”となるのです。
生徒に太極拳を教える時には、間違ったことを教えないように。先ずは自分の癖をチェックする。上体、腰、腿など。問題を発見出来なければ解決することも出来ません。
ある年配の人の質問。
「私は、自分では出来なくても、何が正しくて、何が間違っているかは理解しています。」
この問題については議論の必要もありません。
私たちは訓練の中において指導にあたらねばなりません。何度も正しい動作を示し、何度も示唆を与える。これこそが訓練ではないでしょうか。
あなたは、“分かっているけれど、出来ない”と言いますが、“分かっている=動作が完成している”ということになるのです。先に練習があり、理論は後からついてくるもの。沢山練習を積めば、理論も自然に深まっていきます。極めるということは、一歩一歩確かめながら慎重に練習を繰り返すということです。
ある人は、規定の動作を指して、“あんなにも緻密な要求は必要が無い”と言うけれど、円や四角といった明確な区別も知らずに、百人いれば百人の拳が存在してしまうという状態よりも、それぞれの拳式の特徴を早く掴むことが可能になります。