北京で太極拳

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2018年 07月 22日 ( 1 )

命中注定。。。

≪一禅小和尚:第281話≫
師匠が言うには、全ての出会いは運命によって定められている。相手が、どんな人であっても、その人は生涯の中で出会うべき人。偶然は無い。その出現は、あなたに何かを教える為。だから、どんな状況に出くわしたとしても信じていていいのだ。行くべだと定められた場所。行うべきだと定められた事。全ては、出会うべくして出会っている。




6歳の小和尚を見た後~偶然、85歳になるフジコ・ヘミングが、自身の不遇時代を振り返って「神様が何かお考えがあって、そうしてくださったんだと思っています」と語る言葉に出会いました。フジコ・ヘミングのドキュメンタリー映画「フジコ・ヘミングの時間」が全国公開中~それに合わせたのか、インタビューがネットに掲載されていました。

★映画の予告編。。。



もし、あのとき、別の選択をしていたなら──。ひょんなことから運命は回り出します。人生に「if」はありませんが、誰しも実はやりたかったこと、やり残したこと、できたはずのことがあるのではないでしょうか。昭和から平成と激動の時代を切り開いてきた著名人に、人生の岐路に立ち返ってもらい、「もう一つの自分史」を語ってもらいます。今回はピアニストのフジコ・ヘミングさんです。

母が亡くなって、残してくれた家を守るために、飼っていた8匹の猫を連れて1995年にヨーロッパから日本に帰ってきました。でも、本当は帰りたくなかった。ヨーロッパで成功して「錦を飾る」予定だったんだもの。

母は、大嫌いだけど大好きな人。母のおかげでピアノに出会えたし、ドイツに留学中も、苦しい生活の中から仕送りを続けてくれました。母から届いた手紙に「私は塩を舐めてでもあなたに勉強を続けさせる」と書いてあって、眠れなくなるほど申し訳なかった。母のためにも成功したいと思ってがんばっていたけど、生きているうちにそれが果たせなかったのは、とても心残りね。申し訳なくて、死に顔を見られなかったわ。

フジコは母親から手ほどきをうけて、幼少期からピアノを始めた。母親の大月投網子は東京音楽学校(現・東京藝術大学)でピアノを学び、戦前のベルリンに留学。そこでスウェーデン人の夫と出会い、フジコと弟のウルフをもうけた。

私が5歳のころ、家族で日本に来て、母は私にピアノを始めさせました。気性が激しい人で、ピアノの教え方も他の部分でも、とにかく厳しかった。ほめられたことはなく、それどころか一日中、私のことを「このアホ」「なんでこんなこともできないんだ」って言い続けている。今思えば、子どもの教育という点では、母は正しくはなかった。毎日責められて何をやっても否定され続けるのはつらかったわね。父がいてくれたら「そんなこと言うもんじゃないよ」と止めてくれたかもしれない。父は穏やかな人だったから。でも、いろいろあって母と幼い私たちを残して、スウェーデンに帰ってしまったんです。母は、そんな父を決して許そうとはしなかった。たまに電話がかかってきても、激しい口調で怒鳴りつけてました。

戦前の日本で外国人の血が入った子どもを育てるのは、たいへんだったと思う。私も弟も、クラスメートから「おまえんち、スパイだろ」ってさんざんいじめられました。配給の知らせがウチにだけ回ってこないなんてことも、よくあった。

母はピアノをお金持ちの家の子弟に教えて、私たちを養ってくれました。私にピアノをやらせたのも、ピアノを身につけたら何があっても食べていけると思ったからでしょうね。

東京藝術大学を卒業後、ドイツに留学。ベルリン音楽学校を経て、ヨーロッパで演奏家としてのキャリアをスタートさせた。向こうで成功をつかむチャンスもあったという。

30代半ばのころでした。ウィーンに、世界的な指揮者であるレナード・バーンスタインが来ると聞いて、私は勇気を出して手紙を渡したんです。私の演奏を聴いてくださいって。その願いは運よく聞き入れてもらえて、私は彼が作曲した「ウエスト・サイド・ストーリー」など何曲かを演奏しました。演奏が終わると彼は私を抱きしめ「君は素晴らしい。私が力を貸そう」と言って、ウィーンでリサイタルを開いてくれることになったんです。街中のいちばん大きな柱に、私のリサイタルのポスターが貼られて、夢のようでした。やっとチャンスをつかんだんだって。ところが、リサイタルの直前、暖房もない古いアパートに住んでいた私は、ひどい風邪をひいてしまったのです。さらに、飲んだ薬が合わなくて左耳が聞こえなくなってしまった。右耳は16歳のときに中耳炎をこじらせて、すでに聞こえなくなっていましたから、両耳が聞こえなくなったのです。

そんな状態でしたから、結果は納得のいくものではありませんでした。ピアニストとしての未来は、完全に失われてしまったと思いました。ウィーンを去り、スウェーデンのストックホルムで、耳の治療をしながら音楽学校の教師の資格を得るために、学校に入りました。それから何十年も、ピアノを教えて、猫といっしょにヨーロッパのあちこちを移り住みました。

ウィーンのリサイタルの直前に風邪をひかなかったらどうなっていたか。それはぜんぜんわからない。(もう一つの人生があったとして)よかったのか悪かったのかも、今と比べようもない。でも、神様が何かお考えがあって、そうしてくださったんだと思っています。

どん底の生活は、何年も続いた。転機は、ヨーロッパから日本に帰国してから4年後の99年2月。NHKの「フジコ~あるピアニストの軌跡~」という45分の番組だった。

日本に帰ってきてからは、毎日、近所を散歩していたわ。向こうではピアノを教えていたけど、こっちでは教える相手がいない。ギリギリの生活でした。生きる気力をなくしていたかもしれない。地獄を歩いているような気持ちでした。でもね、お友達や母の教え子のみなさんが、聖路加国際病院で週に1回ぐらい演奏をさせてくれたり、母校の東京藝大のホールでコンサートを開いてくれたりして、だんだんたくさんの人が聴いてくれるようになっていたの。

98年の暮れ、近所の教会に置いてあったパンフレットに「待っていなさい。必ずそれは来ます」って教えが書いてあったのを見たの。やがてあなたの時代が来ますからって。そのときは、神様、その話は知っていますが、私のことはお忘れになっちゃったんですね、と思った。

それから1週間ぐらいたって、NHKの人から連絡があって~番組が放送されたのは、とても寒い夜だったわ。放送が終わった直後から局にはすごい反響があったらしく、ウチにも翌日からどんどん電話がかかってきました。

その後の活躍は、誰もが知るところ。6月から、初のドキュメンタリー映画「フジコ・へミングの時間」(監督 小松莊一良/配給 日活)が公開中。パリや京都の自宅での普段の暮らしから、世界を旅する演奏活動まで今の“素顔のフジコ”が収められている。

自分のドキュメンタリーを見るのって恥ずかしいわね。もちろん、演奏には、自信を持ってきたわ。でもね、こんなふうに注目されて、認められて当然とは思っていません。先日もある演奏会で、弾き終わったときに「ミスだらけでごめんなさい。拍手をもらう資格はないです」って謝ったら、その途端に会場じゅうの人が立ちあがって、「ブラボー!」って拍手されちゃって。その場から逃げ出したくなったわ。

ピアニストの中には、何分でこれだけ弾けるとか、どれだけ正確に弾けるとか、そんなことを自慢する人がいるけど、スポーツじゃあるまいし。正確なのがいいのなら、機械に弾かせればいいのよ。私は、あたたかい演奏をしたい。レパートリーが少ないと、よく言われるから、もっといろんな曲をやればよかったなと、ちょっと後悔することもある。でも、欲張らなくても、世の中には山ほど曲があって、ピアニストも山ほどいる。それぞれが得意な曲をやればいいじゃない。

ピアノも人生も、少しぐらい間違えてもいい、完璧じゃなくてもいいっていうのが私のポリシー。楽しいことばっかりじゃなくて、悲しいこともあったほうが、天国に行ったときに少しおセンチな気持ちにもなれていいじゃない。笑ってばっかりだったら、きっと退屈よ。
by takeichi-3 | 2018-07-22 23:55 | いろいろ | Comments(0)