北京で太極拳

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中医の始祖。。。神医≪扁鵲≫

中国中央テレビでシリーズ放映されていた≪国宝档案≫。興味深い話題が多い番組でした。

★中医の始祖と呼ばれている≪扁鵲≫の生涯。。。




四川博物館に展示されている、漢代に作られた最早最完整な中医針灸人体模型。
その表面には、経絡線とツボが明確に描かれています。

針灸、中国人にとっては、一種の起死回生的な神奇な医術。この由来は中医の始祖と呼ばれている扁鵲に由来しています。

扁鵲は、中国春秋戦国時期の医家。
中国西漢期の史書≪史記≫によると、扁鵲は渤海郡鄭人(現在の河北省滄州)出身。
青年時、管理していた貴族の宿泊施設で名医長桑君と出会い医術を学び、後に、各地を巡り治病救人。

弟子と共に虢国に至った時、人々が祈祷を行っていた。一体全体?尋ねてみると~太子が病に侵されて昏睡状態に~太子が死んだと思った国王が、太子の為に祈祷を命じたから。

医者の直感で、一人の侍に太子の様子を尋ねたところ~「太子の病は、血気不順内邪不能外泄、正気圧不住邪気により突然亡くなった」~それを聞いた扁鵲は、「私が太子を直します」~これといった、特別な風采をしているわけでもない扁鵲を軽んじた侍は~「おまえの医術は死人を蘇させることができるのか?」~「私を信じられないというのなら、太子の様子を見てきてください。その太腿をさすって体温が感じられたら、鼻息を確かめて~毛髪を使って微弱な呼吸を認められたら、蘇生は可能です」

結果は扁鵲の言った通り、即座に宮中に呼び入れられ~太子の身体を仔細に検査した後、針を用いて治療。弟子たちには按摩を命じ~暫くすると、太子は目覚めた。

是を目の当たりにした人々は驚き~扁鵲が太子を蘇らせたという噂は、瞬く間に広まっていった⇒「扁鵲神針」

早期の針は石製。竹製もあった。時代の変遷とともに~春秋戦国時代になると金属製(初期は銅)も出現。石や竹よりも効果のある金属針。針治療は飛躍的に行われるようになっていった。針灸を利用していた扁鵲の治療法は、以降の人たちに大きな影響を与えた。

多くの人が扁鵲を捜して治療を乞うようになったが、彼には拘りがあった⇒巫術治療を信じている人には治療しない⇒衛国を訪れた時、当地に重病人がいると聞いて治療を施してあげようと自ら尋ねたが、その父親は軽蔑的な面持ちで「あなたには直せない。既に人を呼んでいる」~父親が呼んでいたのは巫術師。扁鵲の前で呪文を唱えたり~治療を開始したが、結局病人は死んでしまった。助けられる命が奪われるのを目にして虚しくなってしまった。

当時は巫術による治療を信じている人が多く~扁鵲が行った太子への治療も巫術によるものだと思い込んでいる人もいた。

「私は、死人を蘇らせたのではない。太子は、まだ死んでいなかった。回復させただけ」
このようなことから、巫術を信じている人には治療しなかった。

多くの国を渡り歩き。。。
当時の医者には、専門の科などは無く、全ての病を治療しなければならなかった。
邯鄲では婦人病を、洛陽では眼病・耳病等五官を、咸陽では子供の病気を~というように多くの臨床経験を重ね、針灸、按摩、服薬等の医療手段を構築していった。

診断に際しては、中医の四診法を利用。
①望診:目で見て患者の様子を観察。
②聞診:臭いを嗅ぐ、耳で聞く。
③問診:病人や家族に質問。
④切診:脈を聴く、胸腹を押す。

普国では、家臣より呼ばれて趙簡子の治療を。
数日前から昏睡が続いていて、薬も施せない為、他の医師たちも治療する術がなかったという。先ずは脈を~様子、呼吸を調べて、周囲の人に質問。職務が忙しくて疲労が蓄積しているのが原因だと診断し~「心配には及ばない。彼の病は疲労によるものだから~秦国の穆公も同じような症状だったが、七日間安静にしていたら回復した。それと同じ病だから、やたらに薬を与えたり巫術を施したりせずに~二日半後に意識が戻った。

太子と趙簡子の二人を治療したことで、扁鵲の医術は認められるように。。。

泰国の武王を治療しようとした時、大臣は扁鵲の医術を信用せず武王に治療を受けないように進言。これに腹を立てた扁鵲は武王と直接治療について話し合わなければ~医術を理解していない人を交えて討論するのは治療の妨げになるからと告げ、王宮を去る。

宮中には、李醯という太医令がいて(彼が治療に当たったが効果は得られず、結局は、扁鵲により武王は回復)、扁鵲の医術が高度であることを知り、自身の地位が脅かされるのを怖れて刺客を放った。。。

扁鵲は亡くなったとはいえ、その医術は弟子たちに引き継がれて中華文明の瑰宝となった。

※李醯~扁鵲刺殺の首謀者だと知った民衆に襲われ、悲惨な最後を遂げたそうです。
by takeichi-3 | 2018-06-10 23:58 | 偉人たち | Comments(0)

形意拳老師。。。練功(功夫)の本質

北京八卦名人≪劉敬儒=国家級非物質文化遺産代表性項目代表性伝承人名単掲載≫の≪武之路60年≫という文章の中に懐かしい≪王世祥老師=師兄≫の名を見つけ~思い出を辿ってしまいました。


★2009年6月~私が王世祥老師に出会った翌日のブログです。

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昨日、宗維潔老師から紹介された形意拳老師のことを調べるにつれ、
半端ではない人物だと~(^^;


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王世祥(京城隠士)。河北省三河县生まれの78歳。
1945年、通臂拳大師張策老師(北京)の弟子だった王殿元老師に五年間五行通臂拳を習う。

1951年、形意・八卦大師駱興武老師の下で十年近く修行。苦練の後、全てを伝授される。その後、それに甘んじることなく会得したことを基本に手法の変化と攻防を研究し続けた。

駱老師は死の間際に独立(自分の派を作る)することを許した。

自分なりの基礎を築いてからは、武術界の友人たちと技を磨きながら実証を繰り返した。その過程で、相手を傷つけそうな場面に出くわすと、手を止めるので自身が傷つくこともあった。

「誰かと組み合うのは自身の拳を検証すると同時に相手の長所を学ぶ為。勝ち負けにこだわると心のバランスが崩れるし、勝敗は武術界の団結に悪影響を与える。“天下武術一家”。各家それぞれ表れが異なっても到達する場所は同じ。どの流派も優れている。本物か偽物かは手を合わせてみれば直ぐに分かる。」と、、、

老師は武術の伝統性を大切にしている⇒実践的武術。老師が主張しているのは、、、
「武術の発展は、伝統の基礎があってこそ。その歴史を顧みても拳が改変したということはない。生徒が老師の技術を全て習得した後、それを研鑽し続ければより優れたものになる。そして、時には、先人が思いも及ばなかった技法を編み出すことになる」

老師の指導方法は開放的。指導を希望する人には誰彼の区別なく指導する。
「門内、門外の区別はしないのですか?」という質問に、笑いながら「私にはこれといった特別な能力はない。ただ功夫と経験があるだけ。それは、誰でも功夫を心掛けていれば手に入るもの。私がどんなに教えても練習しなければモノにはならない。あなたたち(生徒)には分からないかもしれないが、誰にでも教えているとはいえ、教え始めてから暫くは生徒を試している。そのうち、私の目に適った者にのみに指導を与えている。通常は、習い始めてから三年は基本練習。その間に、武術を本当に愛しているか、良い素質(性格)を持っているか、我慢強く練習を続けていけるかを見極める。三年を過ぎた頃が本当の入門期。それからが本当の指導の始まりになる。」

老師の武侠談、、、
ある日の夕飯後。宣武芸園内で練習していると二人の中年男性がやって来た。
「バトミントンをやるから場所をあけろ」と、老師は二人に理を諭したが従わず、酒気を帯びていた二人は老師に向かい手や足を出してきた。自身は手や足を出さずに身をかわすだけ。二人はその服にすら触れることもできず息が上がり、最後にラケットを投げつけてきた。が、これも軽くかわしてしまった。そうこうするうちに人垣ができ、誰かが警察を呼んで事なきを得たが。。。

後から、この様子を伝え聞いた弟子たちが、「この二人を見つけ出して懲らしめなけらば」と言うと、「やっつけようと思ったら、ちょっと手を出すだけで簡単に終わっていたよ。彼らは普通の人(武術家ではない)。私に怪我をさせることもできない。武術家が手を出すとなると大怪我だけでは済まないこともあるからね。練武術は自分を助ける(養う)ものでなければ。悪い運用をしてしまうと、今まで積み上げてきたものを台無しにしてしまう。」

老師がいつも生徒に言っていること、「あなたたちの武術は私が伝授したもの。それに対して、私には責任がある。もし、あなたたちの武術が悪いことに使われたとしたら、その責任は私にある。“手を出すのは最終手段”。本当にどうしようもなくなった時に、やむなく使うもの。私にとって、相手を倒すのはとても簡単。けれど、尊敬や愛を得られるのは、高尚な人格があってこそ」

★北京滞在中、宗維潔老師からは多くの太極拳規律を学び財産とすることが出来ましたが、それ以上の宝となっている体験は、王老師と共に宣武芸公園(芸=武芸)で過ごした時間⇒毎日、数十年変わることなく練習を続けている様子を傍らで見ながら、練功の本質~積み重ね(功夫)の貴重さを感じ取れたことです。
by takeichi-3 | 2018-05-15 23:58 | 偉人たち | Comments(0)

双節棍(Nun Chucks)。。。

★双節棍/NUN CHUCKSのパフォーマン色々。。。




★これは、双節棍の原型だと言われている大盘龍棍。。。



中国を起源とする武器だそうですが。。。
双節棍は宋太祖趙匡胤によって創られたという伝説が残っている。
元は大盘龍棍(近代北方では大掃子と呼ばれている)&小盘龍棍(小掃子)。当時の大盘龍棍の一端は短く、一端は長く~敵が騎乗している馬の足を狙ったり、鎧を着けた兵士との戦いで使用(相手の戦闘力を削ぐ)⇒「虎尾梢子」とも呼ばれ~フィリピンや日本へと伝わっていった。


★虎尾三節棍。。。




他に~古来より農民が麦を打つのに使っていた“連枷”と呼ばれる農具が原型だという説も。

★連枷棍。。。




★真打~ブルース・リーによる実戦。。。フィリピン人に学んだそうです。


by takeichi-3 | 2018-04-25 23:57 | 偉人たち | Comments(0)

清朝末十代武林高手。。。

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中国の武術愛好者のサイト、清朝末の十代武林高手を各々の判断で色々語っていますが、私がUPした「10个清末武林高手, 你觉得哪个功夫最厉害」の動画にも様々なコメント寄せられ興味深くて~最近「ここに出てくる人たち全員でかかっても拳四郎は倒せない」という言葉が~(#^_^#)





★動画通りではありませんが、中国の武術愛好家が独自の好みで選定したベスト10。
忙しくしていて~訳している時間がなくて。。。(^^;

1)董海川
董海川(1797年—1882年)生于清代嘉庆年间,原名董明魁,清朝河北省文安县人,著名武术家,曾在九华山云盘老祖门下学艺。他身材魁梧、臂长手大、膂力过人、擅长技击,铁砂掌、太极拳都不是他的对手。主要成就是:威名震河朔,创立和传播八卦掌。

2)王正谊
王正谊(1844年—1900年),字子斌,祖籍河北沧州,京师武林名侠。因他拜李凤岗为师,排行第五,人称“小五子”;又因他刀法纯熟,德义高尚,故人人尊称他为“大刀王五”,和谭嗣同是好友。王正谊一生行侠仗义,曾支持维新,靖赴国难,成为人人称颂的一代豪侠。位列民间广泛流传的晚清十大高手谱中,与燕子李三、霍元甲、黄飞鸿等著名武师齐名。

3)黄飞鸿
黄飞鸿(1856年-1925年),原名黄锡祥,字达云,号飞鸿,幼名飞熊,生于佛山市南海县,是清末民初的洪拳大师,岭南武术界一代宗师。也是位济世为怀、救死扶伤的著名中医。
他平生绝技有双飞砣、无影脚、铁线拳、单双虎爪、罗汉金钱镖等。因其尤精虎形诸势,故在武林中享有“虎痴”之雅号。其中“佛山无影脚”因为影视剧,而广为流传。

4)霍元甲
霍元甲(1868-1910),天津人,爱国武术家,“迷踪拳”第七代传人。1909年扬名上海,并创办了精武体育会,培养了大批武术人才,为强健国民体质、传承武术文化做出了突出贡献。

5)王子平(1881年-1973年),河北沧州人,中国近代著名武术家。受家风影响,王子平自幼习武,擅长查拳与太极,龙泉剑,有“神力千斤王”之称。他曾先后挫败过“世界第一大力士”俄国康泰儿、西方力士马志尼、阿拉曼、柯芝麦、沙力文等。1923年(民国12年)创办中国武术社,还自创“青龙剑”。
6)杜心武
杜心五(1869一1953),名慎媿,出生于湖南省慈利县,人称南北大侠,中国近代著名武术家,是自然门开山鼻祖徐矮师的独传高足,也是自然门第二代掌门人。曾担任宋教仁、孙中山先生等人的保镖。因为其身材瘦削,被称为侠骨。在日本留学时,曾经飞腿打败相扑,又被称为神腿。1953年7月8日,八十四岁的杜心五在打坐时安然去世。

7)韩慕侠
韩慕侠(1877-1947),天津津南区大韩庄人,形意拳、八卦掌大师,曾先后随张占魁、应文天等九位师傅习武,编采百家而独具一帜。韩慕侠将形意拳、八卦掌融会贯通,自成一派。民国元年创建天津中华武士会,他是电影《武林志》里东方旭的原形。

8)李存义
李存义(1847-1921),原名存毅,字肃堂,后改名存义,河北深县人。少年时就长习长短拳技,中年师形意拳名家刘奇兰学艺,后至京与程廷华等为友,并兼从董海川习八卦掌。1900年,以53岁之龄,毅然投身义和团,手持单刀上阵,奋起抗击外敌,一时间"单刀李"之名,不胫而走。晚年弃镖行,专志授徒。宣统三年(1911),与叶云表在津创办中华武士会。后任教上海精武体育会、南洋公学院(交通大学前身)等地。生前于北方武术界威望甚高。

9)孙禄堂
孙禄堂(1860—1933年)名福全,字禄堂,河北顺平县北关人,孙式太极拳暨孙门武学创始人,中国近代著名武术家。在近代武林中素有武圣,武神,万能手,享有“虎头少保,天下第一手”之称。曾信手击昏挑战的俄国著名格斗家彼得洛夫。年愈花甲时,力挫日本天皇钦命大武士板垣一雄。古稀之年,又一举击败日本五名技击高手的联合挑战。

10)尚云祥
尚云祥(1864年-1937年),武术家,形意拳大师,尚氏形意拳创始人。尚云祥先拜李存义为师,后得郭云深真传。他体弱瘦小,身高不足1.6米,但却以“大杆子”、“半步崩拳”、“丹田气打”及实战武功名震武林。曾被清朝大内总管李莲英聘请护院,曾在李存义在北京的沛城镖局,保定的万通镖局主持镖局。
by takeichi-3 | 2018-04-10 23:44 | 偉人たち | Comments(0)

掃地僧。。。武功高手

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馬雲主演のカンフー短編映画≪功守道≫
ジェット・リーの役柄は≪掃地僧≫

少林掃地僧又は無名老僧と呼ばれている金庸小说《天龍八部》の中に登場する武功極高な高僧。
少林藏経閣に隠居している。功课は掃除。少室山上の武林大会で、軽々と高手たちを破った~天龍八部の中で一番の高手とされている。その登場は第四十三章~そして、即、隠棲。



★その腕前~瞬く間に侵入者を倒してしまいますが、医術も高手~即、蘇生させたりもしています。






★水滸伝の中に登場している掃地僧。。。





by takeichi-3 | 2017-11-05 23:51 | 偉人たち | Comments(0)

葉問の長男(葉准)を訪ねて。。。

★インタビュー形式のドキュメンタリー≪十三邀=全十三回(十三人)≫
功夫系は~葉問の長男≪葉准≫
去年の放映だそうですが、葉問ドラマ出演の頃に比べると、かなり老いた感じ。。。


★テレビドラマ出演時。。。




★現在、香港で道場等を開いています。。。比較的分かり易い中国語(漢字)。


by takeichi-3 | 2017-11-03 23:58 | 偉人たち | Comments(0)

小休止。。。昭和~植木等

NHKで、植木等のドラマが放映されているようですが、、、




昭和を感じさせる、このインタビュー~好印象でした。。。



by Wiki
植木等の父親である徹誠(てつじょう)は、かつて徹之助と名乗っており、若い頃はキリスト教徒であった。後に浄土真宗の一つである真宗大谷派常念寺の住職となる。大変な社会的正義感の持ち主で、被差別部落出身ではないが「自分は部落民ではないと思うことが、既に相手を差別していることだ」と述べて、水平運動に参加した。治安維持法違反の罪に問われて何度となく投獄をされても、積極的に反差別と反戦を貫いて運動、戦後は日本共産党に入党。60年安保のデモ隊にも参加するというような「行動する僧侶」だった。但し、「謹厳実直」なだけの人物ではなく、息子等から見ると「支離滅裂」~義太夫語りになろうとしたこともあり「いわば蕩児でもあった」という。

等の少年時代には、ステテコ一丁の徹誠が等を寺の「仏様」の前に連れて行き、物差しでその頭を叩きながら「この音を聞いてみろ。金ピカだけれども中は木だ。こんなものを拝んでもどうにかなると思ったら大間違いだぞ」と諭したという。「等」という名前は、社会運動家の顔も持っていた父が「平等」にちなんで名づけた。少年時代の等は、投獄された父に代わって僧衣を纏い檀家をまわるという生活を送っている。その経験もあってか、1993年にハナ肇が亡くなった際、その葬儀において自ら読経した。

そんな真面目な性格であるから「スーダラ節」の楽譜をはじめて渡された時には、「この曲を歌うと自分の人生が変わってしまうのでは」と真剣に悩んだ。父親に相談すると「どんな歌なんだ?」というので植木はスーダラ節を歌ってみた。激しい正義感の持ち主の父の前で歌ったあまりにふざけた歌詞に激怒されると思いきや、父は「すばらしい!」と涙を流さんばかりに感動した。唖然とする等が理由を尋ねると、「この歌詞は我が浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の教えそのものだ。親鸞さまは90歳まで生きられて、あれをやっちゃいけない、これをやっちゃいけない、そういうことを最後までみんなやっちゃった。人類が生きている限り、このわかっちゃいるけどやめられないという生活はなくならない。これこそ親鸞聖人の教えなのだ。そういうものを人類の真理というんだ。上出来だ。がんばってこい!」と諭され、植木は歌うことをついに決意した。このエピソードは、植木が歌手として生きていく上での生涯の支えになったという。
by takeichi-3 | 2017-10-21 23:51 | 偉人たち | Comments(0)

孫力力~中国雑技を世界に。。。

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中国中央テレビが製作しているドキュメンタリーシリーズ≪人物≫
中国雑技団常務副団長を務める≪孫力力≫の回、ちょっと熱中してしまいました。




中国雑技団常務副団長を務める≪孫力力≫
彼女が指導する北京雑技団が、モンテカルロ国際サーカスフェスティバルで最高賞を受賞するまでの経過を紹介しています。

8歳の時に雑技表演を始め、≪蝶恋花・花盤≫等で金獅賞を獲得~38年間舞台で活躍。
1995年以降は後輩を指導~国内外の大会で53個の金賞を獲得。

モンテカルロの大会に参加するには、開催当局からの招待が必要~勝者に与えられるのは、サーカス界のオスカーと称されている “ゴールデンクラウン賞”。

2004年、孫力力が引率した中国雑技団の≪十三人頂碗≫~伝統的な雑技頂碗を高難度技にアレンジ~演者たちは、骨折しても休むことなく毎日訓練に励み~雑技に携わる人々が、不可能だという表演を完成させる。

フェスティバル参加前に、海外の観客たちの反応を見ることも兼ねてフランスで公演。観客から受けの良いのは~等を研究。その後、モンテカルロに向かう予定にしていたが、中国政府から参加不可の通知。資金源を絶たれて、フランスの中国大使館に寄宿。練習場所は極寒の野外~ようやく許可が下りたと思ったら、重要なポジションの演者が腸詰まりで排泄が出来なくなり、手術をしないと危険~回復までには一カ月かかると言われ~今までの努力を医者に訴え~翌日の10時まで待ってもらうことに~マッサージが効を奏して開通。

フェスティバル当日、中国雑技団の一つ前の表演はロシアチーム。似たような演目で表演技術も素晴らしかったが~最高点を獲得した中国雑技団がゴールデンクラウンを獲得。

孫力力の信条。。。「精品では足りない。極品でなければ!」




現在、モンテカルロフェスティバルで審査員を務めている孫力力。
2016年には、≪特殊貢献賞≫を受賞。
各国の表演等を参考にして新しい舞台を意欲的に創作~新作では、パルクールも取り込んでいる。
by takeichi-3 | 2017-10-14 23:53 | 偉人たち | Comments(0)

張策。。。通臂拳大師

ついつい気になって。。。
調べてしまった王世祥老師の師父の師父、臂聖と呼ばれていた≪張策≫

★張策が、太極拳と通臂拳を融合させて創った≪通臂太極≫




≪張策≫
1866天津生まれ。1934年没。

f0007580_2356787.jpg幼い頃から、家伝の戳脚、二郎拳、黒虎拳等を学ぶ。
毎朝、村の廟にある張大相の練武場に通っていた。
苦練をものともせず熱心に励み、一年が過ぎた頃~息子の進歩の速さを喜んだ父親は、息子の為に、鉄匠に鉄製の靴とベストを作らせた。

七歳の時に父が急逝~その悲しみが原因で病に臥せた母親は、張大相に息子を託して亡くなった。

その後は、毎朝三時に起きて練拳。夜が明けると、練武場へ。
後に、遊僧金陵笑和尚に出会い五猴通臂拳を学ぶ。

十二歳の時、人に陥れられるトラブル発生~故郷を離れて北京へ。
北京では、楊健侯より楊式太極拳を学ぶ。又、同時に、陳慶和尚から通臂拳の指導を受ける。

壮年期、共に陳慶の弟子で兄弟のように交流していた祁家門伝人王占春と切磋琢磨。
王占春亡き後は、韓という姓の老道長に出会い練功。
通臂拳の技術は極みに達した。

その頃、練功時には、重さが10kg(片足)ある鉄靴を履いていた。
そのこともあって、「臂聖」もしくは「鉄鞋」という呼び名でも知られていて~北京以外の場所でも指導~又、遠方より彼を訪ねて来る愛拳者も多かった。

孫禄堂、呉鑑泉、褚民宜、許禹生、紀子修等の武術大家とも厚く交流。
中でも、孫禄堂との関係がよかった。

1924年、張作霖に請われ、瀋陽に赴きボディガード&二人の子供たちに教武。
1928年、張作霖が亡くなった後、奉天国術館の副館長に。
1931年、9・18事変後に北京に戻り、北平国術館の教練に。
1933年、南京で行われた中央国術館の試験副管長として呼ばれた時に引きとめられ教練に。

その教え方は、保守的で秘不示人的なものではなく、広く徒弟を募り伝播した。
呉図南も張策に学んでいる。
by takeichi-3 | 2017-05-18 23:56 | 偉人たち | Comments(0)

懐念。。。形意拳老師

★この動画を見た瞬間、北京で形意拳を習っていた王世祥老師の姿が思い浮かびました。




宗維潔老師からの、、、
「形意拳を習いたいなら、私の師爺に~」という紹介から始まった出会い。

f0007580_195728.jpg北京滞在中、毎日のように通った宣武芸公園。
自分のペースで五行拳を繰り返していると、一日に一回だけ伴走してくれて~

初めのうちは、その腕の動きを真似~それから、上体や下半身との繋がりを見ながら協調を研究するようになり~そのうち、目が養われてきたのか、外見だけではない何かが見える(?)ようになってきたのです。

目が肥えてからの驚き~書籍で見知った武術理論が動いている。
その後、最も印象に残ったのがコレ。
多数の歯車が連動~一気呵成に相手を射止めに行っている。

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王世祥(北京の隠棲高手)
1931年、河北省三河县生まれ。2015年5月逝去。

1945年、通臂拳大師張策の弟子王殿元より五行通臂拳を学ぶ。
1951年、形意拳、八卦掌大師駱興武の門下となり形意拳と八卦掌を学び、勤学苦練の後に、その教えを悉く掌握した後も拳の研鑽に励み、駱興武は臨終の前に独立収徒を許した。

常に武術界の友人たちと、互いに技芸を確かめ合って切磋琢磨。
推手、散手、摔跤に精通していた。


f0007580_23384712.jpg天下武術は一家。各家毎に訓練方法は異なるが、高手になると、お互いがお互いの功夫を見極められ、通じ認め合えるようになる⇒手を合わせながら、互いに研究している技を披露~それを基に、又、新しい技撃を工夫する。

師父から伝授された武芸を全て丁寧に取得。それを実践に役立てながら、更なる工夫を加えていく~誰も考え出せなかった攻防を生み出す。習武者本来の楽しみ方。

王世祥は、武術を愛し、真面目で、苦練を厭わず堅持できる~
を見極める為、三年の間は基本を培う練習をさせ、それに適った者になら、門里門外の区別なく誰にでも同じように指導していた。

「私がどんなに良い技術を伝授したとしても、本人の努力がなければ、成すことはできない」

呉式太極拳の劉偉老師も王老師から形意拳&八卦掌の指導を受けていますが、、、
一昨年、王老師が逝去した後に東京で開催された講習会に参加した時、既に、王老師の技術から演化されたものになっているのを感じました。

以前、雑誌中華武術に寄稿された劉偉老師の追悼文の訳⇒ ≪王師父との出会い≫

by takeichi-3 | 2017-05-17 23:56 | 偉人たち | Comments(0)