≪楊氏太極拳≫の成り立ちと太極拳の発展を追った番組。。。
公元1860年、北京平安里西大街端王府にリングが設けられた。華北永年県からやって来た青年楊露禅が、北京の高手たちを打ち負かし≪楊無敵≫と呼ばれるようになった。
特に関心を集めたのは、
楊露禅の軟綿綿とした誰もが見たこともない拳法で立て続けに勝利したこと。この拳は?
北風が吹き荒れ一晩中大雪が降り~一面が銀世界となった河南省温県陳家溝。
「朱門酒肉臭、路有凍死骨=by杜甫⇒金持ちの家では、食べ残した酒や肉が腐臭を放っている。貧しい者は路頭で凍死している⇒仕官を目指して長安に向かったが、叶わず~十年経って帰郷した杜甫が見たのは、飢え死にした我が子。」
心優しい陳長興は、門前に倒れていた凍死寸前の乞食を助けた。
この乞食が、後に新しい拳を作り出すことになることを陳長興は思いも及ばなかった。
陳家溝は、河南省温県東5kmにある。明末清初、温州任陳王廷が此処に至った時には、村中を南北に走る小河があったので、陳家溝という名に変えた。
毎晩、真夜中になると、陳家溝の人たちは練拳を始めた。
拳をベールで覆い隠していた陳家。陳長興は本物の武林高手だった。
言い伝えによると、、、
明洪武初年、張三豊と呼ばれる道士が天地自然の規律を悟り、道家の導引と吐納術を応用して、内家拳の奥義となる套路を創った。それが、河南陳家溝へと伝わり、綿々と外に現れることなく代々伝わっていった。
この拳の動きは、力を使わない~が基準となっている⇒筋肉の力を使わず~内臓をも緊張させない。この軟綿綿な拳の名前は十三勢軟手。
太極拳は初めのうちは、十三勢と呼ばれていた。四正は、ポン、リー、ジー、アン。四斜は、ツァイ、リエ、ジョウ、カオ。これは八卦に対応している。
進、退、顧、盼、定は歩法。進(前)、退(後)、左顧、右盼、定は中央。五行となる。
八卦と五行で太極十三勢。
陳正雷は、陳長興の第5代孫。祖先から伝わる十三勢軟手を見せてくれる。
拳を出す時、放松が要求される。放松の下、速度による力量で撃っていく⇒筋肉の力ではない。
陳家溝の人たちが練拳している姿を、壁に登って、じっと見ている者がいた。
陳長興が吹雪の日に救った乞食は、言葉を発したことが無かった。ガードが堅かった陳家溝。武功に自信を持っていた陳長興は、まさか、誰かが盗み見ることができるとは思っていなかった。
陳家溝の人たちは、彼(楊露禅)を見かけると「聾唖のお前も拳を習いたいか?」と、からかうことがあった。
その言葉に間違いはなかった。聾唖は陳家溝の武術を学びたがっていた。人々が寝静まるのを待っては起き出し、七年の間、たゆまず練習を続けた。
その聾唖の名は、楊露禅。華北永年県の貧しい家の子供。
生まれながらの武術おたく。
楊露禅は若い頃から武術が大好きだった。若い頃は洪拳を習っていた~少林拳と似ている。
楊露禅は武術を習いたかったが、家庭が貧しくて、、、
当時、一文無しの子供が武術を習いたいというのは、馬鹿げた夢だった。苦労の果てに、陳長興は真に大武術家だと聞き、陳家溝へ駆けつけたが、200年来、陳家では一族以外の者を弟子にはしていないと聞き、行倒れの聾唖を装って陳家の中に入り込もうと、その門の前に横たわった。もう少しのところで凍死するところだった。
陳家溝の武功は、互いに打ち合うタイプの拳ではなかった。
その運動は、糸を紡ぐ(巻く)ような~一圏、一圏~全身上下が転動(螺旋)。腰を軸として各関節も転動~全身が、大きなボールを抱えているような動きになる。
楊露禅が見た十三勢軟手以外、第二套⇒炮錘~突然の爆発「排山倒海=勢いが凄まじい」を出せる。
何故、最も剛(陽)な炮錘と最も柔(陰)な軟手が、同一人物の中で統一出来るのか~先に、十三勢軟手で相手の力を受け止める~これが目的ではない~相手の力を受けて化し~攻撃に転じる⇒その時に、炮錘が出現する。
太極拳の「引進落空」「借力発力」「四両抜千斤」は、どんな道理なのか?
相手が力を出してきた時、その力を引き込みながら力点を変化させる~自分のバランスを調整~相手のバランスが崩れたら、発力⇒「借力発力=四両抜千斤」「以弱勝強」「以小打大」⇒東方文化の精髄。
その拳は、筋肉に依らない力を用い、相手の力を利用して倒す。
拳理に気付いた楊露禅は、道が開けて明るくなったような気がした。この拳は、格闘技の観念を大きく変える。力を使わずとも相手を倒せる。相手の力を借りて倒す。
8年後、楊露禅の武功は大成した。
楊露禅の盗拳の話は、清朝の宮白羽の小説に登場したのが最初。
その≪太極用舎命盗拳≫から見いだせるのは二点。陳家溝は200年の間、拳を外に伝えなかった。楊露禅は特別だったのか。。。
もし、一般の人が耐えられない事を忍び、苦労も厭わず、自分の発想で行動をしていけば、いつかは目的を達成できる。
永年の人たちは、この盗拳の話を嫌っている。
楊露禅は、広府村の薬屋の主人の紹介によって、三回、陳家溝に向かった~その熱意に感動した陳長興が正式に弟子にしたと信じている。
真実がどうだったのか今では分からないが、結果はいずれも同じ。陳長興は、楊露禅に陳家の拳を伝えた。
陳家溝に残る小さな煉瓦作りの家は、楊露禅が拝師して練拳したところと伝えられている。
その後、北京の端王府里にやってきた楊露禅は、十三勢軟手を表演した。誰もが目にしたことが無い新しい風格の拳。この拳がユックリなので、見下す人もいた。
ある人が楊露禅に尋ねた。
「楊老師、この拳で人を倒せるのかね?」
「倒せないのは三種類の人だけ。鉄人、石人、木人~血の通った人なら、誰でも倒せる」
その言葉を聞いて、彼に挑んだ者がいる。
武を競うには怪我がつきもの。楊露禅は、地面に四本の杭を打って網を張り~「網の上に倒されたら負け」と宣言した。
先ず、李という武僧が挑んできた。
彼の右脚を蹴り上げると、楊露禅は揽雀尾を使って~武僧に勝った。
「楊無敵」と呼ばれ、その名声は広く知られることになった。
楊露禅によって、太極拳は初めて天下にアピールされ~発展していくことに成功した。
試合の様子を、ずっと見ていた人物がいる。
それは、同治、光緒両皇帝の老師(翁同?)。試合後、その動きを称えた言葉を联に書き記して渡した⇒その中に、太極の言葉があり、以降、太極拳と称するようになった。
皇帝は、楊露禅を清朝新機営のコーチとして招いた。
清廷は、太極拳を国術として推出。
公元1861年。
皇帝から国家が民間武術家に与えた最高の栄誉を掲げて、楊露禅は故郷へと向かった。16年前、大雪の日に陳家溝に向かった彼は、北京で名を成した。
此処(永年県にある楊露禅の住まい跡)は、以前はもっと大きかった。
二つに分かれていて~四合院と後ろにも院が。後ろの院は、楊班侯(息子)が練習した場所。
ここが練習場所?
元々は、この後ろに、もっと大きな場所があった。
楊露禅の故郷広府古城~小江南と呼ばれる水郷地帯。
その古城で毎日練習をしていたという。。。
水は柔和なのに、水滴はどうして石を穿つことが出来るのか。。。
多くの物の中に、柔弱が剛強に打ち勝つという結果を見ることが出来る=思いが強ければ、目標に到達できる。
陳家溝で陳長興から技術を授けられた後、更なる高手を求めて各地を歩き~高手が雲のように押し寄せてくる北京では、王府で教える傍ら多くの武術家たちと切磋琢磨することで更に技術を高め、遂に一代宗師となった。
もし、彼が途中で諦めていたとしたら、武林高手とはなれなかっただろう。楊露禅の特異な経験と数々のチャンスが中国武術史上に更に大きな奇跡を起こすことになる。
楊露禅の武芸は河南陳家溝で学んだものだが、その風格について、人々は楊式太極拳と陳式太極拳の走架(型)と打法には違いがあると~ある者は、楊式太極拳の出自が本当に陳家溝なのかを疑った。
例えば、陳氏太極拳は、纏糸~螺旋運動を研究した動き。楊氏太極拳は、抽糸な動き。前へと向かう鋭い力⇒楊露禅は、陳家溝で学んだ拳を改変。
充分に完成していた拳を、何故改変したのか。。。
楊露禅が北京で名を成してから、多くの官吏や貴族が太極拳を習いにきたが、彼らに拳を教えるのは困難だった。体力が衰えていたり、高貴な生活様式になれていたり~動きが激しい套路は無理。
更に深刻な原因となったのは、、、
清末期は、中国の歴史の大転換期。。戦い方も変わってきていて、刀剣や弓矢といった時代は去り、武術で戦うことがなくなり~時代遅れだと思われ始めていた。
そこで、楊露禅は、高難度な発力や凶猛な動作を除き、伝統陳式の動作スピード=快慢(発力)を均一な速度に~跳躍もなく~結果、宮廷で暮らす人たちでも練習が可能になった~一般人でも老人たちでも練習可能。
太極拳理には陰陽五行の道教思想が取り込まれているので、官吏や貴族たちの雅な趣味にも適合⇒粗野なイメージではない太極拳は、流行となった⇒楊露禅は、「亀眠蛇行之意」「行雲流水之容」「沈魚落雁之美」と~⇒「太極拳は文化教養」と認められるレベルまで押し上げられた⇒文化拳、哲理拳。
楊露禅は、型の名称も優雅な名称へと変えた。
又、中国医学の経絡、導引、吐納なども取り込んで、健身養生&長寿の効果も得られるようにした⇒太極拳=健身拳としてのイメージの成立。